三好徹
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S-Fマガジン』1963年1月号(早川書房)より
ペンネーム石心子
三好 漠
誕生河上 雄三
1931年1月7日
日本東京都
死没 (2021-04-03) 2021年4月3日(90歳没)
日本東京都
職業小説家
ジャーナリスト
国籍 日本
最終学歴横浜国立大学経済学部卒業
ジャンル推理小説スパイ小説歴史小説
代表作『聖少女』(1968年)
『チェ・ゲバラ伝』(1971年)
『興亡と夢』(1986年)
主な受賞歴文學界新人賞次席(1959年)
直木賞(1967年)
日本推理作家協会賞(1967年)
デビュー作『光と影』(1960年)
親族河上和雄(弟)
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三好 徹(みよし とおる、1931年1月7日 [1][2] - 2021年4月3日)は、日本ジャーナリスト作家東京生まれ[1]推理小説スパイ小説歴史小説などを発表した[1]。本名は河上 雄三[3]
経歴と作品
生い立ちと作家デビュー

小学生時代は「雷電為右衛門」などの少年講談や推理小説を愛読[4]旧制中学校1年の時に陸軍幼年学校を目指したが不合格、2年修了時に合格して、14歳で第二志望だった名古屋陸軍幼年学校に入学した[5]。東京幼年学校の同期に西村京太郎[6]、名古屋幼年学校の2期上に加賀乙彦がいた[4]。敗戦で元の学校に戻り、東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)卒業後、横浜高等商業学校(在学中に横浜国立大学経済学部に改名)に進学、卒業後1950年、読売新聞社に入社[7]

入社後、横浜支局を経て本社地方部に勤務。同部で上司と対立し、水戸支局へ左遷される。1952年に肺結核と診断され7ヶ月間通院、1955年に東村山の結核療養所に2年間入院し、その間にカフカカミュサルトルを読んで衝撃を受けた。その後、読売の先輩である菊村到の勧めで記者をしながら小説を書き、また同僚だった佐野洋の影響で推理小説に向かった。1959年、『遠い声』にて文學界新人賞次席(三好漠名義)。本名で『大学の裏窓』刊行の後、1960年、長編推理小説『光と影』で作家デビュー。また1960年の安保闘争の際に、読者投書の特集紙面で「国民の「声なき声」をここに紹介する」と書いたのが三好で、投書の大半は政府の退陣を求めていたが、岸信介は「声なき声」は政府を支持していると述べて、流行語になった[8]
執筆活動

1966年に『風塵地帯』で日本推理作家協会賞を受賞し、読売新聞を退職し作家専業となる。「聖少女」で直木賞受賞(1967年下半期(1968年1月))、以後推理小説、スパイ小説等多数の作品を執筆。

子母沢寛『新撰組始末記』を読んで坂本龍馬暗殺に興味を持ち、これを推理小説仕立てにした「龍馬暗殺異聞」を直木賞受賞後の第一作として発表、続いて伊藤博文暗殺に関する「博文暗殺」などの歴史を題材にした推理小説を書き、その後も幕末・明治期を舞台にした歴史小説、元勲や政治家の伝記小説を多く書くようになる[8]

「風の四部作」と呼ばれるスパイ小説、インドネシアで起きた軍事クーデター(9月30日事件)を背景に、国際諜報戦争に巻き込まれていく新聞記者の視点で描かれた『風塵地帯』(1966年)、キューバを舞台にした『風は故郷に向かう』(1963年)、中近東を舞台にした『風に消えた男』(1965年)、『風葬戦線』(1967年)は、日本における国際スパイ小説の先鞭をつけたとされる(郷原宏[9])。スパイ小説としては、『外套と短剣』『海と弾痕』『生けるものは銀』『地下の戦士』『独裁者の密使』がある。

また推理小説の「天使」シリーズ40数編があり、これは1968年発表の「迷子の天使」に始まる短編小説群で、作者がかつて経験した新聞社の横浜支局の警察回りの新聞記者を主人公としており、同じ主人公による長編『汚れた海』『天使が消えた』がある。この一人称の主人公「私」には名前がなく、これはダシール・ハメットハードボイルド小説に登場する探偵コンチネンタル・オプを意識にしている[10]。1964年の「ナポレオンの遺髪」はイギリスの科学雑誌にヒントを得たもので、エラリー・クイーン編『日本文芸推理12選』(1978年)にも収録され、クイーンにより「自らの作品の文学性に常に関心を払い、作りもののトリックやギミックをさけて、リアリスティックな構成を心掛けている」と評された。1965年頃から経済小説も執筆し、『宴会屋半平』(1976年)『小説総会屋』(1978年)、『小説投機』(1978年)などがある。

ロングセラー『チェ・ゲバラ伝』以来、近現代史を主題とする歴史小説にも取り組む。1982年から『週刊ヤングジャンプ』に、二・二六事件から終戦までの昭和史『興亡と夢』を連載。少年時代から吉川英治などによる『三国志』を愛読していたが、曹操の作った詩「老驥伏櫪 志在千里」を読んで曹操を中心にした『三国志』を書きたいと考え、『三国志演義』を元にした『興亡三国志』を、『ビジネスジャンプ』誌で1987-97年に連載した[11]日本ペンクラブ理事。1979-81年に日本推理作家協会理事長。

趣味の囲碁は、戦後すぐの頃に父から教えられ、1971年に文壇本因坊になるほどの棋力で、読売新聞時代に「石心子」のペンネームで観戦記を書いたこともある。プロ棋士についてのノンフィクション『五人の棋士』や、関西棋院の創設者橋本宇太郎の評伝「反骨の男」(『闘う男たち』所収)などもある[12]。囲碁界への貢献により、2006年第36回大倉喜七郎賞を受賞した。

またゴルフに関する著作もある。

検事弁護士河上和雄は弟。

2021年4月3日、誤嚥性肺炎のために死去[13]。90歳没。
作品

1977年に朝日新聞に『決断の時』を連載する際の予告インタビューでは、「小説は花も実もある嘘八百だ」「いい小説は同時に大衆娯楽作品でもなければならない。ヘミングウェイも、ある意味ではドストエフスキーも、そういう側面を備えていた」と、自身の文学観を語った[14]。また「わたしは歴史小説に題材を求めた作品を書くとき、自分がジャーナリストだったことと決して無関係ではないと思うが、この歴史の流れと主人公との関わりを考えている」[15]と語った。同じ読売の後輩である本田靖春によれば、もともとは社会部記者を希望していた。直木賞を受賞し、作家として大成した後も、『おれは、小説はさほど上手いとは思わないが、新聞記者としては東京で五本の指に入る』と嘯いていたという。


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