三好元長
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例三好 元長
三好元長画像(見性寺蔵)
時代戦国時代
生誕文亀元年(1501年
死没享禄5年6月20日1532年7月22日
改名元長→海雲(法名)
別名長基、筑前守
戒名南宗寺海雲善室
墓所大阪府堺市堺区宿院町東の顕本寺
幕府室町幕府山城守護代
主君細川晴元
氏族三好氏
父母父:三好長秀(異説として三好之長
兄弟元長、康長
妻正室:慶春院[注釈 1](出自不明)
長慶実休安宅冬康十河一存野口冬長、娘(小笠原成助室)、娘(小笠原元武室)、娘(大西頼武室)、娘(芥川孫十郎室)
テンプレートを表示

三好 元長(みよし もとなが)は、戦国時代阿波国武将細川晴元(六郎)に仕え、その偏諱を与えられて元長と名乗る。

父に関しては三好長秀という説が有力であるが、祖父で長秀の父・三好之長の子という説もある。本来ならば之長の後継者だった長秀が早くに戦死したため、之長が元長を長秀の養子にしたという説がある。
生涯
挙兵、政権奪取

文亀元年(1501年)、誕生。

永正17年(1520年)、三好氏の総帥であった之長は細川高国に敗れた際に処刑されており、その世子であった長秀はそれ以前に戦死していた。このため、之長の直系であった元長が三好氏の新たな総帥となったものの、高国への反撃に出られぬまま阿波国において、之長が擁立していた主筋である細川澄元の遺児・六郎(後の晴元)と共に逼塞していた。

将軍に返り咲かせた足利義稙との仲違いに陥ったものの、新将軍に足利義晴を据える事でなおも磐石を保った高国の独裁政権であったが、大永6年(1526年)7月に細川尹賢の讒言で香西元盛を誅殺した事から綻びを見せた。謂れの無い上意討ちに元盛の兄弟・波多野元清柳本賢治丹波国で造反し、高国の政権は鎮定に失敗、軍事力の弱さを露呈したのである。

これを好機と捉えた元長たちは、同年10月に阿波国で挙兵。足利義維(義晴の兄弟)を擁して高国軍に挑む主君・細川六郎を助けて、畿内まで進軍して越年。高国に造反した波多野軍との合流を果たすと、大永7年(1527年)3月には高国と義晴の連合軍と激突し、これを撃破(桂川原の戦い)。高国たちを近江国へ追放し、立場を逆転させた。

さらに、遁走により政治機能を喪失した高国政権に替わるべく堺公方(堺大樹)の樹立に貢献。同年11月19日には、近江国の六角定頼越前国朝倉宗滴らの加勢を得て、堺公方派の駆逐を期する高国軍を桂川周辺の泉乗寺(川勝寺)で撃退、細川六郎による新たな畿内支配体制を確立させるべく尽力した[1][2][3]
退去、再び畿内へ

大永8年(1528年)7月、それまでの功績により山城守護代に任じられたが、翌享禄2年(1529年)には新たに同僚となった柳本賢治・松井宗信らと険悪な状態となったため、阿波国に逼塞する。

その間、伊勢国北畠晴具(高国の娘が嫁いでいた)に加え播磨守護代・浦上村宗の加勢をようやく得て、再挙兵した細川高国軍が中央進出のための地固めとして、播磨国内の各地を転戦、勝利を重ねていた。その播磨国へ迎撃に派遣された柳本賢治を享禄3年(1530年)6月の急死(暗殺とも)で失うと、高国と村宗の連合軍には8月に摂津への侵攻を許すなど、元長不在の堺公方派は戦局が悪くなり、ついには薬師寺国盛のような高国軍に降伏する者が現れるなど、窮地に追い込まれつつあった。

享禄4年(1531年)2月、細川六郎の懇願によって元長は復帰するも、事態は逼迫していた。播磨国からの転戦で進撃を見せてきた細川高国と浦上村宗の連合軍に苦戦したために、翌3月には堺公方派で河内国からの新参・木沢長政が京の防備を放棄し、撤退した為、高国軍の京都奪還を許してしまう。

目障りな堺公方を討滅せんと、意気盛んな高国軍に摂津南部まで迫られた窮地に際し、阿波国からの援軍8,000を得て、高国軍の先鋒に攻撃をした。しかし援軍を加えたとはいえ、堺に鎮座する足利義維を守るための戦力を半数以上も割かねばならぬ為、高国軍と真っ向から対峙するには少なく、元長の手腕に依存するところが大きかった(中嶋の戦い)。

戦局は戦線の膠着化を招いた。そして同年6月、高国軍の増援として現れた赤松政祐の裏切りにより事態は進展し、高国軍を壊滅させた(大物崩れ[4][5][6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:23 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef