三國連太郎
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みくに れんたろう
三國 連太郎
1950年代
本名佐藤 政雄(さとう まさお)
生年月日 (1923-01-20) 1923年1月20日
没年月日 (2013-04-14) 2013年4月14日(90歳没)
出生地 日本 群馬県太田市
出身地 日本 静岡県賀茂郡松崎町
死没地 日本 東京都稲城市
身長178 cm
血液型AB型
職業俳優
ジャンル映画テレビドラマ舞台
活動期間1950年 - 2013年
配偶者4回結婚
著名な家族佐藤浩市(長男)
寛一郎(孫)
主な作品
映画
善魔』(1951年)
戦国無頼』(1952年)
太平洋の鷲』(1953年)
宮本武蔵』(1954年)
警察日記』(1955年)
ビルマの竪琴 第一部・第二部』(1956年)
異母兄弟』(1957年)
鷲と鷹』(1957年)
暗黒街最後の日』(1962年)
飢餓海峡』(1965年)
にっぽん泥棒物語』(1966年)
神々の深き欲望』(1968年)
襤褸の旗』(1974年)
金環蝕』(1975年)
犬神家の一族』(1976年)
霧の旗』(1977年)
皇帝のいない八月』(1978年)
復讐するは我にあり』(1979年)
あゝ野麦峠』(1979年)
マルサの女2』(1988年)
釣りバカ日誌』シリーズ(1988年 - 2009年)
利休』(1989年)
息子』(1991年)
美味しんぼ』(1996年)
大河の一滴』(2001年)
大鹿村騒動記』(2011年)

 受賞
カンヌ国際映画祭
審査員賞
1987年親鸞 白い道
日本アカデミー賞
最優秀主演男優賞
1990年『利休』『釣りバカ日誌
1992年『息子
1996年『三たびの海峡
会長特別賞
2013年
ブルーリボン賞
主演男優賞
1960年『大いなる旅路
1989年『利休
助演男優賞
1979年『復讐するは我にあり
新人賞
1951年『善魔
特別賞
2013年 生前の業績に対し
その他の賞
紫綬褒章
1984年
勲四等旭日小綬章
1993年キネマ旬報賞
男優賞
1965年『にっぽん泥棒物語
主演男優賞
1989年『利休
1991年『息子
助演男優賞
1979年『復讐するは我にあり毎日映画コンクール
男優主演賞
1965年『飢餓海峡』『にっぽん泥棒物語
1974年『襤褄の旗』
1989年『利休』『釣りバカ日誌』
男優助演賞
1961年『はだかっ子』『飼育紀伊國屋演劇賞
個人賞
1989年日刊スポーツ映画大賞
主演男優賞
1991年『息子報知映画賞
主演男優賞
1989年『利休』『釣りバカ日誌』
助演男優賞
1979年『復讐するは我にあり

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三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年大正12年〉1月20日 - 2013年平成25年〉4月14日[1])は、日本俳優映画監督。本名は佐藤 政雄(さとう まさお)。

息子は俳優の佐藤浩市、孫は俳優の寛一郎群馬県太田市生まれ[2]。身長178cm、体重70kg[3]
概要

個性派俳優として日本映画界を牽引し、圧倒的存在感をスクリーンに残した、日本を代表する名優の一人。デビュー以後、『ビルマの竪琴』(1956年)、『飢餓海峡』(1965年)、『はだしのゲン』(1976年)、『ひかりごけ』(1992年)など社会派作品から、『未完の対局』(1982年)、『三たびの海峡』(1995年)、『大河の一滴』(2001年)など中国を中心にした国際合作、『犬神家の一族』(1976年)、『野性の証明』(1978年)、『マルサの女2』(1988年)などの娯楽大作まで、主演助演を問わず幅広く出演、映画出演の本数は180本余りに及ぶ[2]

その徹底的な役作りは真骨頂と評され、エピソードも残している[4]。オールスターの超大作に相応しい映画では常連の一人として、権力者など上層部の人物役で特別出演もした。
来歴
生い立ち

母親が16歳の時、一家離散により広島県呉市海軍軍人の家に女中奉公に出され、ここで三國を身籠り追い出されて帰郷した[5][6]。帰郷の途であった静岡県沼津駅で父親と出会い、1922年に父親の仕事先であった群馬県太田市にて結婚、翌年1923年1月に三國が生まれた[7]。この育ての父親は電気工事の渡り職人で、生後7か月のとき、一家で父親の故郷・静岡県西伊豆[要曖昧さ回避]へ戻った[2]。その後、旧制豆陽中学(その後の静岡県立下田北高等学校、2008年に静岡県立下田南高等学校と統合し、現在は静岡県立下田高等学校)を2年で中退するまで土肥町(現在の伊豆市)で育った[8][9]

中学時代は水泳部で活動したが、2年生で退学した。これより父親の怒りを買ってしまい、暴力から逃れるため下田港から密航を企て青島へ渡った。その後釜山で弁当売りをし、帰国後には大阪で皿洗い、ペンキ塗り、旋盤工などさまざまな職に就く[2][10]
徴兵、終戦まで

1943年(昭和18年)12月、20歳のとき大阪で働いていたが、徴兵検査の通知が来て故郷の伊豆へ戻り、甲種合格後、実家へ戻った[11]。すると「おまえもいろいろ親不孝を重ねたが、これで天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ」という母の手紙が来た。三國は、「戦争に行きたくない。戦争に行けば殺されるかもしれない。死にたくない。何とか逃げよう」と考え、同居していた女性とすぐに郷里の静岡県とは反対の西へ向かう貨物列車に潜り込んで逃亡を図った。逃亡4日目に列車を乗り継いで山口県まで来たとき、母に「ぼくは逃げる。どうしても生きなきゃならんから」と手紙を書いた。親や弟、妹に迷惑がかかることを詫び、九州から朝鮮を経て中国へ行くことも書きそえた。数日後、佐賀県呼子で船の段取りをつけていたところで憲兵に捕まり連れ戻された[10][12]

処罰は受けず、皆と同様に赤ダスキを掛けさせられて、静岡の歩兵第34連隊に入れられた[13]

中国へ出征する前、最後の面会にやってきた母が「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」と言ったとき、母親が家のために黙って戦争に行くことを息子に強要し、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したことを知る。家族が村八分になるのを恐れ涙を呑んでの決断だったという[10]。中国の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国の土を踏めたのは20人から30人にすぎなかった。戦地へ向かう途中、身体を壊し熱病にかかる。10日間意識不明になり、死んだものだと思われ、工場の隅でむしろをかぶせられて放置されていたが、焼き場に運ばれ、いざ焼く番になってむしろをはがしたら目を覚ましたという。漢口の兵器勤務課に配属され、この部隊で終戦を迎えた[2][14]。なお、三國自身は銃を一発も撃つことはなかったという[15]
戦後

1945年(昭和20年)の敗戦時、収容所に入れられ、独自に作った化粧品などを売って過ごした。中国からの復員の際に、妻帯者は早く帰国できるということで、同じ佐藤姓の女性と1946年(昭和21年)4月に偽装結婚し、同年6月に引き揚げ[2]。復員時に長崎県佐世保市から鉄道広島駅へ達した際には、駅から四国が望まれ、原子爆弾の脅威を知る[12][13][16][17]。その後は多種多様な職業につく[18]宮崎県宮崎市の妻の実家に身を寄せて宮崎交通に入社、バス整備士として2年勤務[2]

1948年(昭和23年)、女児を身籠もっていた妻と離婚して鳥取県倉吉へ行く[2]。近くの三朝温泉へ行ったとき、戦争中に満蒙開拓団に関係していた人と知り合いになり、その紹介で県農業会(のちの農業協同組合)に入り[13][19]、組合長の秘書を務めながら農村工業課を新設[2]サツマイモ澱粉からグルコースを採取する作業を指導する[19]。まもなく土地の資産家の娘と再婚[2]
上京して映画界入り

1950年(昭和25年)、単身上京して福島県福島市を拠点に闇商売を始め、一時は大儲けするが結果的に挫折する[2]

同年12月[2]東銀座を歩いていたところ松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入る[19]


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