三国志
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三国志
中国語
繁体字 三國志

発音記号
標準中国語
漢語?音S?nguozhi
ウェード式San1 kuo2 chih4
IPA[sán kw?̌ t??̂]
注音符号?? ???? ??

満洲語
満洲文字.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"} ????
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ローマ字ilan gurun-i bithe

三国志(さんごくし、三國志)は、中国後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の約100年に亘る興亡史であり[1]の三国が争覇した三国時代の歴史を述べた歴史書でもある。著者は西晋陳寿233年 - 297年)(詳しくは『三国志 (歴史書)』を参照)。
概要

後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基としての時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基としての初期に羅貫中らの手により、『三国志演義』として成立した。

「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、日本だけでなく、世界中に広まった。
「三国志」と「三国志演義」の違い詳細は「三国志演義の成立史」を参照

単に『三国志』と言う場合、本来は陳寿が記した史書のことを指す。対して『三国志演義』とは、代のにまとめられた歴史小説である。歴史書『三国志』はを正統としているのに対し、『演義』では蜀漢を正統としており、それぞれの正統観に最も大きな違いが見られる[2]

『演義』の序文には「歴史における「義」の重要性にも拘らず、それが通俗性に欠けるために、分かりにくい」という問題の指摘から始まり、その上で『三国志平話』などの「評話」は誤りが多く君子が嫌ったため、陳寿の『三国志』を中心に事実を描くが、難しくないものを目指し、読者への普及を願ったと記述している。すなわち、『三国志』そのものは難しいので、通俗性を高めて「義」を「演」繹する、すなわち押し広めることを目的としたのである[3]

清代中期の史家、章学誠は『演義』を「七割の実事に三分の虚構」と評し、多くの史実に基づいてる事を表現した。『演義』と合わせて「四大奇書」に括られる『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』がほとんど白話(口語)で書かれているのに対して、『演義』は文語で書かれている部分も多い。これは『三国志』や『資治通鑑』などの史書からの引用が多いためである。それでも『演義』が小説である以上、虚構により創作した物語の面白さや表現の巧みさは『演義』の文学性の中心におかれ、三割といわれる虚構は、多くは蜀漢のため、なかでも「智絶」諸葛亮の知恵と「義絶」関羽の義を表現するために用いられる[4]
受容と流行
中国における「三国志」観

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出典検索?: "三国志" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年5月)

歴史書『三国志』の受容

『三国志』は、信頼性の乏しい情報を極力排して簡朴明解な記述を行ったため、「質直さにおいて司馬相如を超える文章」(「陳寿伝」に載せる范?の上表)「人物評価に見るべきものがあり、記事は公正正確なものが多い」(裴松之「上三国志注表」)などの高い評価を受けた。しかし南朝宋の裴松之がその簡潔すぎる記述を惜しみ、当時存在した諸種の文献を引用し注釈を作成した。『三国志』とこの裴注、また『後漢書』、『晋書』、『華陽国志』、『世説新語』などに散見する三国時代の記述が三国志の史実世界を構成している。

『三国志』の戦乱と激動の記録は後世、特に文人の詩想を大いに刺激した。『三国志』をモチーフにした詩詞としては杜甫「蜀相」、杜牧「赤壁」、蘇軾「赤壁賦」、陸游「書憤」などが特に名高い。また、西晋左思(252?307)の『三都賦』が魏・呉・蜀それぞれの都の繁栄のさまを活写したと評価が高く人々が争って書き写そうとしたため(当時、印刷はまだなく手で書き写すしかなかった)紙が高騰し「洛陽の紙価を高からしむ」の故事が生まれた[5]

三国はそれぞれ正統性を主張したが、を滅ぼした後、魏から禅譲を受けるという形で司馬炎が建てた晋(西晋)によって、魏が正統であるとされたが、南北朝時代に入り、晋が全国政権ではなくなると(東晋)、習鑿歯が蜀漢正統論を唱え、次第に注目されるようになった。宋代には「三国のうちどの国が正統であるか」という、いわゆる「正閏論」が盛んになり、司馬光(『資治通鑑』)・欧陽脩(『明正統論』)・蘇軾(『正統弁論』)らは中国の過半を支配した実情から魏を正統とした。しかし、「正統」を決めようすること自体が現実的側面よりは観念的・倫理的な側面の強い議論であり、結局は観念論に基づいた朱子の蜀漢正統論(『通鑑綱目』)が主流となっていった。この歴史観は朱子学の流布と共に知識人階層に広まり、劉備を善玉とする『三国志演義』の基本設定に一定の影響を与えた。

清代に考証学が盛んになると、王鳴盛十七史商?』・趙翼二十二史箚記』・銭大マ二十二史考異』・楊晨『三国会要』など多くの研究が著された。これら考証学の成果は民国に入って盧弼『三国志集解』によって集大成された。また、三国志時代の社会経済等については、同じく民国の陶元珍の『三国食貨志』(上海商務印書館 1934年)がある。
『三国志演義』・大衆文化の受容

『三国志演義』は通俗歴史小説の先駆となり、これ以後に成立する『東周列国志』『隋唐演義』『楊家将演義』などに大きな影響を与えている。


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