三国志演義の成立史
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三国志演義 > 三国志演義の成立史

三国志演義の成立史(さんごくしえんぎのせいりつし)では、中国代に成立した長編小説で四大奇書の一つ『三国志演義』の成立過程について概説する。『三国志演義』は、後漢末期の混乱から三国が鼎立し、によって再び統一されるまでの約1世紀にわたる治乱の歴史を描いた通俗小説である。3世紀末に成立した歴史書『三国志』以降、南宋代の都市で語られた講談までの間に培われた逸話群が、代に刊本『三国志平話』としてまとめられ、さらに元の雑劇元曲)の要素を吸収しつつ、代に作品として完成した。そのため、部分的に白話口語)文体を用いた文言小説[※ 1]となっている。作者は一般的に羅貫中と言われるが、定かではない(後述)。現存する最古の刊本は、1522年刊と思われる『三国志通俗演義』(嘉靖本)である。16世紀から17世紀にかけて隆盛を迎える通俗白話小説の元祖となった。
正史から演義へ桃園結義図(周曰校本)

『三国志演義』は、実際の歴史を題材として描いた講史小説である。184年に起きた黄巾の乱を契機に漢の世が乱れ、董卓呂布曹操袁紹孫策ら群雄の攻防が行われた結果、曹丕の魏、劉備の蜀、孫権の呉の3つの国家が鼎立。本来1人しかいない皇帝が同時に3人存在する異常事態となった。その後、魏が蜀を滅ぼした後に晋に代わられ、280年晋が呉を倒して再び国家統一ができるまでの約100年の歴史をその対象とする。史書に書かれた実際の事件だけでなく、時代を彩る英雄達の様々な逸話がちりばめられており、代中期の学者章学誠1738年 - 1801年)は、著書『丙辰札記』の中で、『演義』の構成を「七分実事、三分虚構」と評している[2][3]

『三国志演義』(以下、『演義』と略称)という書名は、史書三国志の義を敷衍するという意味である。その義とは「劉備が建てた蜀こそが漢を受け継いだ正統王朝である」とする蜀漢正統論を意味する(漢の皇室と同姓の劉備は、前漢景帝の子孫を称しており、漢から魏への王朝交代に際し、漢を継承するとして建国した)。3世紀末に歴史書として書かれた『三国志』は魏を正統としていたが、1200年後に小説として完成するまで、物語が形成される過程の一貫した流れは、蜀漢正統論の浸透と、それに伴う関羽諸葛亮の神格化、および曹操の奸雄化であった[4]。以下『演義』が成立するまでの過程を概観する。
唐代まで
陳寿『三国志』詳細は「三国志 (歴史書)」を参照三国時代

正史『三国志』(以下、正史)65巻は、三国時代の当事者だった蜀出身の晋の史官陳寿は承祚。233年 - 297年)による歴史書で、『魏書』30巻『蜀書』15巻『呉書』20巻の3書から成る。『史記』以来のスタイルである紀伝体で叙述されているものの、必須要素である紀(本紀=皇帝ごとの年代記)は『魏書』にしか存在せず『蜀書』『呉書』には伝(列伝=重要人物の伝記)しかない。つまりこれら3書は初めからセットとして作成されたことがうかがえ、あわせて「三『国志』」と称された。『華陽国志』陳寿伝によれば、晋が呉を滅ぼした(280年)直後に完成したとある[5]。本来は陳寿の私撰として編纂されたが、唐代に編纂された『隋書経籍志以降、同時期の歴史を扱った類書とともに正史の類に編入され[※ 2]、その後、他書を次第に駆逐していった。なお陳寿の他の著書としては他に『古国志』『益州耆旧伝』などがあるが、現存していない[5]

蜀漢滅亡後、晋に仕えた陳寿は表向き、漢-魏-晋を正統な後継王朝とし『魏書』のみに「紀」を設けた。中華皇帝は同時に2人以上存在できないという建前の下、魏の文帝漢の献帝から禅譲を受け、晋の武帝魏の元帝から禅譲を受けて成立した王朝であるから、これは当然のことである。君主の死亡記事でも、魏の基礎を築いた曹操には、皇帝に対して用いられる「崩」の字を使用している。これに対し、陳寿が以前仕えた蜀漢もまた漢の皇室の血を引くと称する劉備が建国した王朝であり、劉備の死に対して陳寿は「殂」という特別な字を用いている。「殂」は『書経』での死去に用いられている字であり、陳寿が劉備を堯の子孫、すなわち漢の後継者であることを仄めかしているようにも受け取れる[6][7]。これに対し呉の孫権の死去は「薨」であり、『春秋』の義例では諸侯の死去に用いる字とされているように、皇帝として扱っていない。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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