三原脩
[Wikipedia|▼Menu]

三原 脩西鉄監督時代 (1951年)
基本情報
国籍 日本
出身地香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町
生年月日 (1911-11-21) 1911年11月21日
没年月日 (1984-02-06) 1984年2月6日(72歳没)
身長
体重168 cm
64 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手
プロ入り1934年
初出場1936年9月18日
最終出場1938年11月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


旧制香川県立丸亀中学校

旧制香川県立高松中学校

旧制早稲田大学 (中退)

全大阪

大日本東京野球倶楽部
東京巨人軍
(1934、1936 - 1938)

監督・コーチ歴


東京巨人軍
読売ジャイアンツ (1936 - 1938、1947 - 1949)

西鉄ライオンズ (1951 - 1959)

大洋ホエールズ (1960 - 1967)

近鉄バファローズ (1968 - 1970)

ヤクルトアトムズ (1971 - 1973)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1983年
選出方法競技者表彰
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 1984年2月6日)は、香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)出身のプロ野球選手内野手、右投右打)・監督球団経営者

出生時の本名および読売ジャイアンツ総監督退任までの表記は「三原 修」(読み同じ)。

長女の三原敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父に当たる。
来歴
プロ入り前?早大時代のホームスチール1931年秋季の早明戦にて
左から弘世正方、三原、萩原寛男

1911年11月21日香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)で生まれる。生家は地元でも有名な大地主で、修は末っ子として何ひとつ不自由なく育った。香川県立丸亀中学校入学後から野球にのめり込み、将来は修が官吏になることを望んだ父親の意向で香川県立高松中学校に転校させられたが、校長は文武両道を推進しており、野球部入部を条件に転入を承認した。高松中学校では遊撃手として投手の梶原英夫(のち東京帝国大学)らと共に第14回全国中等学校優勝野球大会へ出場し、準決勝まで進出したが雨天コールドで敗退となった。また、当時の野球部マネージャーを務めていたのは、のちに日本社会党委員長に就任する成田知巳だった。

高松中学校を卒業した三原は第四高等学校を受験するが、三原の先輩にあたる水原義明が在籍していた早稲田大学から勧誘されて入学する[1]早稲田大学野球部では1年生から二塁手として活躍し、特に1931年春季の、いわゆる「早慶戦」2回戦で水原茂を相手に敢行したホームスチールは長い早慶戦史に名を残すほどの大きなプレーだった[注釈 1]。このホームスチールで勝ち越しに成功した早稲田大学は流れを掴んでその後も加点して6-3で勝利を挙げ、早稲田大学は対戦成績を1勝1敗として1930年春季からの早慶戦の連敗を5で止めることが出来た。

しかし、三原は1933年に結婚を機に野球部を退部[注釈 2]して帰郷した。故郷では野球から離れた生活を送っていたが、大学時代の仲間に勧誘されて大阪府へ転居し、全大阪でプレーを始めた。三原のリーグ戦の成績は通算67試合に出場し、231打数68安打、打率.294だった。
現役時代?契約第1号の選手東京巨人軍内野手時代の三原(1938年)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:166 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef