logo三原城
(広島県)
本丸天主台
別名浮城、玉壺城
城郭構造梯郭式平城
天守構造建造されず
築城主小早川隆景
築城年永禄10年(1567年)
主な改修者福島氏
主な城主小早川氏、福島氏、浅野氏
廃城年不明
遺構石垣、堀
指定文化財国の史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度24分4.62秒 東経133度4分57.57秒 / 北緯34.4012833度 東経133.0826583度 / 34.4012833; 133.0826583
三原城(みはらじょう)は、備後国御調郡三原[1](広島県三原市)にあった日本の城。国の史跡[2]。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(172番)に選定された。 最盛期の構造は、天主台を北(陸側)に頂いた本丸、その東・西・南側に二の丸、そしてそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた梯郭式の城であった。さらには海に向かって船入りを開いており[3]、郭を隔てる縦横の堀の重なりも加わると、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれている[4]。 永禄10年(1567年)頃に、小早川隆景によって整備が始められたとされる[3]。隆景は天文19年(1550年)に竹原・沼田・両小早川家を掌握し、翌年には高山城に入城している[5]。その後、天文21年(1552年)、沼田川対岸に新高山城を創築し本城とした[5]。弘治元年(1555年)には、厳島の戦いに水軍を率いて毛利勢の勝利に貢献するなど、急速に小早川家、ひいては毛利家の伸長を図っている。後に隆景は、現在の沼田川河口の三原湾に浮かぶ小島や中州をつないで、いわゆる砦を築き水軍の拠点とした。これが三原城の原型を成したものと思われ、三原要害とも呼ばれていたようである。当時、新高山城下まで瀬戸内海は深く湾入していたものの、勢力を強める小早川水軍(水運)の差配には、より効率的な運用が期待できるこの地に「三原城」を整備したものと思われる。 天正8年(1580年)から10年にかけて、三原要害は隆景によりさらに整備が進められ、いよいよ海城としての偉容を現した。そして隆景は、新高山城から三原城へと本拠を移した。三原城は、瀬戸内海を軍事的に掌握する為に建てられた城である。三原城の縄張りは梯郭式であり、壮大な天主台を北(陸側)に頂いた本丸、その東・西・南の三方に二の丸、そしてそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた台形状の城郭であった。 城の後背には、新高山城下などから数々の寺院を移築し、さらに背後の「桜山」に、詰めの城として機能を担わせた可能性も窺われる。なお桜山には、山名氏により桜山城 天正15年(1587年)、隆景は豊臣秀吉から筑前国を加増され、名島城(福岡県福岡市)に居城を移した。やがて文禄4年(1595年)、養子の秀秋に家督・筑前国を譲り、三原城に戻り隠居した[6]。この時期(文禄4年 - 翌慶長元年)隆景は、再度三原城の修築に取りかかっている。
概要
歴史