1920年生まれの歌手「三原純子」とは別人です。
日本の政治家.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}三原(みはら) じゅん子(じゅんこ)
公式肖像写真(2018年撮影)
生年月日 (1964-09-13) 1964年9月13日(59歳)
出生地 日本 東京都板橋区
出身校板橋区立志村第一中学校
前職女優
歌手
所属政党自由民主党(無派閥[1])
配偶者あり
公式サイト参議院議員 三原じゅん子
オフィシャルウェブサイト
みはら じゅんこ
三原 じゅん子
本名中根 順子
別名義旧芸名 三原 順子
生年月日 (1964-09-13) 1964年9月13日(59歳)
出生地 東京都板橋区
職業女優・歌手
介護施設経営者
カーレーサー
ジャンルテレビドラマ・映画・舞台
活動期間1972年 - 2010年
配偶者松永雅博(1990年 - 1999年)
ハッピハッピー。(1999年 - 2007年)
一般人男性(2016年 - )
主な作品
テレビドラマ
『3年B組金八先生』
備考
身長 164cm 体重 47kg
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三原 じゅん子(みはら じゅんこ、本名:中根 順子、旧姓:三原、1964年〈昭和39年〉9月13日 - )は、日本の政治家、元女優・歌手、介護施設経営者、レーシングドライバー。以前は出生名の三原 順子で活動。自由民主党所属の参議院議員(3期)、参議院環境委員長。芸能活動期間の所属事務所は東京宝映テレビ。血液型はB型。
参議院厚生労働委員長、参議院消費者問題に関する特別委員長、自由民主党女性局長、厚生労働副大臣、内閣府大臣補佐官、 参議院政府開発援助等及び沖縄・北方問題に関する特別委員長 を歴任。 東京都板橋区出身。 1964年(昭和39年)9月13日、東京都に生まれる。父は印刷会社を経営していたが、倒産する[2]。連日、強面の男が借金の取り立てに来たという[2]。父は働く意欲をなくし、酒浸りとなり、母は夜の仕事で家計を支えていた[2]。 1971年(昭和46年)4月、淑徳小学校入学。翌1972年(昭和47年)、東京宝映テレビ・劇団フジに入団し、劇団フジ定期公演「青い鳥」等に出演[3]。劇団に入り演技を学び、ドラマにも出るようになると、学校ではそれを羨んだ生徒から教科書をカッターで切られたり、階段から突き落とされたりと次々にいじめを受けたという[2]。 1975年(昭和50年)、第29回定期公演で「強制収容所の少女」の主役シズエを演じる(大場久美子とのダブルキャスト。1977年(昭和52年)4月、十文字中学校入学。1979年(昭和54年)、テレビ朝日系ドラマ『燃えろアタック』(主演は歌手の荒木由美子)へ出演。本格的なドラマデビューとなる。学校が芸能活動を許可していなかったため、2年2学期に自主退学し、板橋区立志村第一中学校に転校する[4]。なお当時の三原は後述の金八以後のようなキャラではなく美少女路線であった。 1979年(昭和54年)、『3年B組金八先生』に「山田麗子」役で出演。役柄の「ツッパリ(=不良、非行生徒)」イメージで、人気が急上昇した。中でも同級生へのリンチシーンで仲間を仕切りながら発した「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」のセリフは、三原のヤンキー性を表す代名詞になった[5]。 1980年(昭和55年)、明治大学付属中野高等学校定時制へ入学。後に仕事と勉学の両立が難しくなり中退。この年セクシー・ナイトでCDデビューを果たし、同曲がヒットし歌番組にも多数出演する。恋人の存在を明かすなど当時の女性アイドルとしては大胆な言動が話題を呼んだ。なお本人は後に「子役時代から活躍していたので、ポッと出のようなアイドル路線は嫌だった。」と語っている。 1982年(昭和57年)には、TAKU(横浜銀蝿)作曲の「だって・フォーリンラブ・突然」のロングヒットで、第33回NHK紅白歌合戦(歌唱曲は「だって…」と同じくTAKU作曲の「ホンキでLove me Good!!」)に出場した[6]。 1984年(昭和59年)、20歳の誕生日を機に本名の「三原順子」から「三原じゅん子」へ改名。また、「JUNKO」というアーティスト名でハードロックのバンドを組み、ライブ活動をしていた時期もある[3]。『金八先生』での役名「山田麗子」をそのまま用いたペンネームで先述の「だって・フォーリンラブ・突然」(横浜銀蝿との共同)などの作詞も手掛けている[7]。 1987年(昭和62年)から1999年(平成11年)にかけては、国際B級ライセンスを取得してレーシングドライバーとしても活動。マーチ・リトルダイナマイトカップ、全日本ツーリングカー選手権、全日本GT選手権(現SUPER GT)、スーパー耐久、スパ・フランコルシャン24時間などのツーリングカーレースで活動し、トヨタのMR-2・カローラレビン・キャバリエ、ホンダのプレリュード・インテグラなどをドライブした[8]。レース中の事故による骨折も7回経験しているという[9]。
来歴
生い立ち?女優