三内丸山遺跡
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三内丸山遺跡
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所在地青森県青森市大字三内字丸山
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯40度48分41秒 東経140度41分48秒 / 北緯40.81139度 東経140.69667度 / 40.81139; 140.69667座標: 北緯40度48分41秒 東経140度41分48秒 / 北緯40.81139度 東経140.69667度 / 40.81139; 140.69667
種類遺跡
歴史
時代縄文時代
管理者青森県
文化財指定国特別史跡(2000年指定)
三内丸山遺跡三内丸山遺跡 縄文時遊館 施設正面

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前[1])の大規模集落跡。当時、クリクルミなど手入れされた落葉広葉樹林(ナラ林帯)に囲まれた集落で[2]、現在の沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。1997年3月5日[3]、国の特別史跡に指定。2021年7月27日[4]国際連合教育科学文化機関により、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。遺跡には竪穴建物(竪穴住居)群、高床建物高床倉庫)群、大形竪穴建物のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料や出土品の展示施設「縄文時遊館」もある[5]。青森県教育庁三内丸山遺跡センターが継続的に発掘調査を行っている。
遺跡保存の経緯

この地に遺跡が存在することは江戸時代から既に知られていた。山崎立朴が弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』(えいろくにっき、館野越本)の元和九年(1623年)正月二日条に多量の土偶が出土したことが記録されているほか、菅江真澄の紀行文『栖家の山』(すみかのやま)の寛政八年(1796年)四月十四日条に、三内の村の古いが崩れた場所から、、土偶のような破片が見つかったことが記録されている[6]

本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年から行われた。その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には直径約1メートルのの柱が6本見つかり、大型建物の跡とも考えられた。これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。

その後、資料館を作って整備を行い、1996年には六本柱建物跡においては湿度を一定に保った保存ドームを作り[7]、柱の現物は他の場所に保存しレプリカを代わりに元の場所に置くなどの措置を行った。また、墓の道の遺構が非常に長く延びていることが分かったため都市計画道路も建設を中止した。
遺跡の概要

八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。集落は住居、捨て場、大型掘立柱建物、掘立柱建物、貯蔵穴、土坑墓粘土採掘穴、盛り土、道路などが、計画的に配置されている。

この遺跡は現在の敷地から、広場を囲むように住居が造られた環状集落であると見られることもあるが、住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられる。現在の遺跡の環状構造はかつて野球場建設の際、その敷地が円形であった跡であり、遺跡とは関係ないものである。

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴建物高床倉庫の他に、大型竪穴建物が10棟以上、約780軒にもおよぶ建物跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。また、他の遺跡に比べて土偶の出土が多く、板のように薄く造られていて板状土偶と呼ばれる。次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっている。

遺跡から出土したDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かった。多数の堅果類(クリ、クルミトチなど)の、さらには一年草エゴマヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。三内丸山の人たちは、自然の恵みの採取活動のみに依存せず、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。このことを通してこの遺跡の居住者数は数百人と考える事ができる。平成6年(1994年)9月に青森市で開催された「北のまほろばシンポジュウム」では最盛期の縄文時代中期後半には500人の居住者がいたのではないかとの発言があったが、異論も出た。[8][9]

それらは縄文時代の文化が従来考えられていたものよりも進んだものであることを示すものであった。遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。
三内丸山遺跡と一連のものであると考えられる遺跡

熊沢遺跡

三内遺跡

三内沢部遺跡

三内霊園遺跡

近野遺跡
[3]

安田水天宮遺跡

遺跡の終焉の謎

これほどの大規模集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎である。一因としては、気候の寒冷化などが挙げられるが、それだけで集落全土を手放すとは考えづらい。栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいるが、それが何であるかは分かっていない。
出土遺物翡翠製大珠(縄文時遊館展示)

出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われる。土器石器が中心であるが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土している。この他にも日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石琥珀漆器翡翠製大珠などが出土している。出土遺物1,958点が2003年(平成15年)5月29日に国の重要文化財に指定された。翡翠糸魚川が主産地であるため、翡翠の出土は上越地域との交易が証明される。また平底の円筒土器?(けつ)状耳飾りなどは、中国大陸遼河文明興隆窪文化)との類似性が指摘されている[10]

三内丸山遺跡から出土した動物遺体は、縄文集落で一般的なシカイノシシが少なく、7割弱がノウサギムササビであり、三内丸山遺跡においてはノウサギやムササビの肉を食料としていたと推察でき、彼らの食生活の一端を窺い知ることができる[11]。背景には巨大集落を支えるシカ、イノシシ資源が枯渇していた可能性が考えられている。
遺構六本柱建物(復元)


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