三億円別件逮捕事件
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三億円別件逮捕事件(さんおくえんべっけんたいほじけん)とは、1968年昭和43年)に発生した三億円事件に付随して、翌1969年(昭和44年)に発生した被疑者誤認逮捕事件、そしてそれに続く報道被害事件である。

1968年12月に東京都府中市で発生した現金輸送車襲撃事件(三億円事件)は、発生から1年が経過しても解決の目途は立っていなかった。しかし、事件からほぼ1年後の1969年12月12日、毎日新聞によるスクープを発端として犯人像と一致するところの多い元運転手の男性Aの存在が明るみに出た。警視庁は同日早朝にAを任意同行させ、軽微な脅迫事件での別件逮捕も利用してAを厳しく取調べた。また、マスメディア各社も早くからAを犯人視し、実名報道で一斉にAのプライバシーを書き立てた。

ところが逮捕翌日の13日夕方になって、外部からAのアリバイを証明する通報が行われ、無実が明らかになったAは同日深夜に釈放されるに至った。その後、誤認逮捕をひき起こした捜査機関と、Aの犯人視報道に徹したマスコミには各方面から強い非難が起こり、日弁連人権擁護委員会からも非難勧告が発せられた。しかし、無実が証明された後もAは世間からの好奇の目とマスコミからの絶え間ない取材に晒され続けた。やがてAは家庭崩壊の果てに精神を病み、2008年平成20年)に自殺した。
背景詳細は「三億円事件」を参照

1968年昭和43年)12月10日、東京都府中市の路上において、日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車白バイ警官を装った人物に停車を命じられた[1]。偽警官はダイナマイトに擬した発煙筒を用いて輸送車の乗員たちを避難させ、そのまま輸送車に乗り現場から逃走、積荷の2億9430万7500円を奪い去った[1]。およそ3億円という空前の金額が奪われたこの事件は、世間の注目を集めたが、同時に現場には大量の物証が残されていたため、事件は早期に解決されるものと予想されていた[2]

ところが、多数の物証は逆に捜査系統を混乱させ、ゆき詰まる捜査に警察は焦りを感じていた[2]。警察が世間の非難を浴びるなか、捜査陣には名刑事と謳われた平塚八兵衛も投入されたが、なおも事件には解決の糸口すら見出せなかった[3]。事件から1年を経た頃には、投入された捜査員は7万2000人、取調べを受けた被疑者は1万2000人にのぼっていた[4]
疑惑の元運転手

1969年(昭和44年)11月頃、捜査陣は、事件前に銀行などに届けられていた脅迫状の再調査を行っていた[5]。その中で捜査陣は、脅迫状のカナ遣いや記号、分かち書きの特徴から、犯人がカナタイプ経験者である可能性に改めて注目した[5]。そして、都内のタイプ学院や多摩地域テレックス導入所などを調査した結果、同月18日、犯人のモンタージュ写真に人相が似た人物として[5]、カナダ小麦局(英語版)在日事務所職員である26歳の男性、Aが捜査線に浮上した[6]。Aにはタイプ経験や容貌の他にも、

牛乳配達員やタクシー運転手の経験から、高い運転技術と現場周辺の土地鑑を持つ

脅迫状から検出された犯人のものと血液型が一致する

ジュラルミンケースから検出されたものと土質が似ているとされた恋ヶ窪への居住歴がある

事件に関連して掛けられた脅迫電話と声が似ている

所有するバイクや出身高校の制服、鳥打帽が犯人のそれと似ている

事件発生の2日後に転居し、その後勤務先を欠勤したうえに退職している

金に困って質屋通いをしていた

友人とともに電車に乗っていた際、「刑事が尾行している」と囁いて電車から飛び降りたことがあった

新聞で報道される三億円の犯人像と自分が似ている、と触れ回っていた

などの点で犯人として疑われる部分があった[5][7]。また、現金輸送車の乗員などの目撃者にAの写真を見せたところ、「全般的に似ている」「これまで見せられた写真の中では一番良く似ている」「目が優し過ぎる」などの証言が得られていた[5]

カナタイプと運転技術方面を担当した捜査班は、この段階でAを8割の確率で犯人と考えていたという[8]。その一方、Aの私信から筆跡鑑定を行った科捜研文書鑑定課長の町田欣一は、「絶対に筆跡が違う」として捜査方針に反対した[9]。また、事件後にもAの金回りに変化がないなど否定的な材料もあったため、捜査本部はAの調べについては慎重かつ秘密裏に進めることとしていた[9]
毎日新聞によるスクープ

ところがこのAに対する疑惑は、「三億円事件に重要参考人 府中市の元運転手」と題した同年12月12日付毎日新聞朝刊社会面トップのスクープ記事によって、日本中の知るところとなってしまう[1]。このスクープ記事は、上記のようなAの疑わしい点を並べる一方、筆跡の不一致や物証の欠如など、否定材料も僅かながら取り上げている[10]。しかしながら、記事は彼を「A」とアルファベット1文字で匿名ながら呼び捨てにするもので、全体としてAが犯人であるとの印象を与えるものであった[10]

捜査関係者らは、現場の刑事にすら周知されていないはずの特捜本部の極秘情報が、毎日新聞に漏れたことに狼狽した[6]。一方、スクープ記事の筆者であった毎日新聞社会部記者の井草隆雄は、捜査情報を自分にリークしたのは他ならぬ平塚八兵衛である、と後になって告白している[11]。井草によると、記者嫌いの平塚と例外的に懇意にしていた彼は、スクープ前日の11日夜、電話で平塚の自宅に呼び寄せられたのだという[11]。井草は、渡された捜査資料を平塚の自宅ですべて書き写したが、その時の平塚は「初動で散々喰い散らかされている」と漏らすなど、捜査に乗り気ではなかったという[11]。当初の井草も、「筆跡が違う」との平塚の言葉から、Aの存在は「まだ書けないネタ」と考えていた[12]。しかし、記事化を強く迫る本社サブキャップに押され、筆跡のような否定材料も入れることを条件に原稿を執筆したのだという[12]。このため、記事の掲載面も1面トップは避けられ、社会面トップとされることになった[13]

一方、警視庁刑事部長であった土田國保は、毎日新聞からの問い合わせによって、11日深夜にはスクープの存在を把握していた[12]。情報漏洩に驚愕した土田はすぐさま、社会部部長に対し記事の差し止めを要請した[12]。だが、その時には既に輪転機が回り始めていたため果たせず[12]、報道によるAの逃亡を恐れた警視庁は、即座に見切り発車でAの身柄拘束を余儀なくされた[13]
取調べと報道
取調べ初日

朝刊が配達される前の12日朝6時過ぎ、捜査員らはAの自宅を訪れ、Aに任意同行を求めた[14]。そして報道陣の目を避けるため、Aは捜査本部の置かれていた府中署ではなく、三鷹署へと連行された[14]。名目こそ任意同行であったが、Aは直後の8時から深夜1時頃まで、食事の間も休みなく、事件についての取調べを受け続けた[15]

取調べにおいてAは、1年前の12月10日、自分は池袋の宝石会社で採用試験を受けていた、と主張した[16]。ところが、捜査員の調べでは池袋にAの主張するような会社は存在せず、この矛盾に捜査陣はAへの疑惑を深めていった[16]。なかでも平塚は、「おまえが犯人でなくて、誰が犯人なんだよ」「やったんだろう、やったに決まっている」とAを激しく怒鳴りつけた[14]。のみならず、Aは無実ではないかと疑問を抱いた捜査員に対しても「あれがホシでなかったら、誰がホシになるんだ、ホシに間違いないだろうが」と怒声を浴びせたという[14]。また、取調べについてAは、髪を引き毟られ、土下座を強要され、口元を出血するほど何度も殴られた、と後に回顧している[17]
報道初日

12日の夕刊は、毎日新聞のみならず各紙が、匿名ではあったがAの容疑を大々的に報じた[18]。また、テレビとラジオも同じくこれを報道した[18]。しかしこの段階では、朝日新聞が「アリバイが成立すれば完全に白ということになる。むしろ、その可能性の方が分があるという感じがする」との土田刑事部長の談話を載せ、サンケイ新聞は「クロシロについては五分五分だ」との武藤三男捜査一課長の談話を載せるなど、中立的なニュアンスとなっている[19]。ところが毎日新聞は他社と論調を異にし、「ほぼ犯人に間違いない」との目撃者の証言を載せ、Aの勤務先について「犯人にとっては絶好の隠れ場所」と書くなど、クロの印象を鮮明にした報道姿勢をとった[19]

しかし、調べによっても未だ成立しないアリバイに、警察とマスメディアはA犯人説へと傾斜してゆく[20]。同日夜に府中署で開かれた記者会見では、「ホシ以上のゲロをしたよ」と武藤が上機嫌でコメントし、Aの犯人性を疑う発言をしたジャーナリストが、他の記者らに取り囲まれて会見場から追い出されるまでに至った[20]。サンケイ新聞の現場キャップであった細谷洋一によれば、現場担当の記者たちはAをシロと見ていたが、警視庁記者クラブ担当はクロに近い感触を得ており、現場記者は板挟みの状況にあったという[21]
別件逮捕

各紙夕刊による集中報道は、またも捜査方針に大きな影響を与えたという[22]。Aを帰宅させれば証拠隠滅の恐れがあり、過熱する報道陣に危害を受ける可能性もあった[22]。この状況下で、捜査陣はAの別件逮捕に踏み切ったとされる[22]

12日の23時半頃、Aは2件の脅迫を容疑として逮捕された[23]。1件は1968年9月の事件で、滞納していた代金の回収に訪れた月賦百貨店の集金人と口論になり、その際に包丁を集金人に見せて追い払ったというもの[23]。もう1件は同年12月の事件で、アパートの鍵が壊されたことを、かねてから不仲であった家主夫妻の仕業と考え、夫妻の留守中に、夫妻の部屋のタンスに包丁を突き刺して脅した、というものであった[23]

しかしAは、前者の事件については、集金人に肩を掴まれて屋外に引き出されそうになったため、喧嘩にならないよう包丁を見せただけであり、実際に使用するつもりはなかった、と主張している[24]。後日、集金人の上司が謝罪に訪れ、その際にAも滞納していた代金を払ったことで事件は収まったのだという[24]。後者の事件についても、翌日に家主の母に謝罪することで円満に解決した、とAは主張している[24]。また被害者の側も、百貨店の集金人は「その折りはビックリしたが、別に〔A〕さんがひどいとも思わなかったし、彼を罰してほしいとも思わなかった」と語り、Aを告訴したことも処罰を求めたこともない、と語っている[25]。家主の母も、Aの別件逮捕については「私としては一年も前に起きたことであり、しかも円満に話がついていたことでもあり、大変心外に思っております」と抗議の言葉を述べている[25]


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