三井高利
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三井高俊」とは別人です。

三井 高利(みつい たかとし、元和8年(1622年) - 元禄7年5月6日1694年5月29日))は、江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛[1]三井家(のちの三井財閥)の基礎を築き、三井中興の祖といわれる。「三井十一家」の基となった人物。
生涯
高利の祖先 近江から松阪へ

史実による確証はないが、家伝によれば三井家は平安時代の摂政太政大臣・藤原道長の末裔だとされている[2]。道長の六男・長家から五代目の藤原右馬之助信生が、平安末期に近江に地方官として赴任し、武士になった。信生が琵琶湖の領地を視察中、三つの井戸を見つけ、そこに財宝があったことから、これを祝して三井姓に改めたとされている。三井家は守護大名・六角佐々木氏に仕えていたが、三井越後守高安の時代、天下統一を目指す織田信長によって滅ぼされた。主家を失った三井一族は近江から伊勢の地に逃れ、最終的に松坂(現・三重県松阪市)の近くの松ケ島の地に落ち着く。松阪の地で高安の子、三井則兵衛高俊は武士を捨て町人となり、質屋や酒・味噌の商いを始める[2]。この店は、高安の官位越後守にちなみ「越後殿の酒屋」と呼ばれる。これが後の「越後屋」の屋号の起源になったと言われている[3]。高俊には妻・殊法との間に4男4女があり、元和8年(1622年)、8番目に生まれた末子が「三井家の家祖」となる三井高利である[3]
出生から江戸進出まで

武士の子である高俊は商いに関心が薄く、家業は実質的に高利の母殊法が取り仕切っていた[3]。丹羽の大商家・永井左兵衛の娘だった殊法は商才に富んだ女性で、信仰心が厚く、倹約家でもあり、息子らに大きな影響を与えた[3]。三井家は少なくともこの地方では、当時から相当の豪商だったと見られる[3]。営業の中心は貸金と質で、酒・味噌の商いは副業であったらしい[4]

長男・俊次は早くから江戸へ出て小間物屋を開店。後に呉服業も手掛けるようになり、同じく江戸へ下った三男・重俊とともに店を繁盛させた[5]。一方、次男の弘重は桐生の桜井氏の養子になった[5]。また、娘たちは全て南伊勢の豪商と縁組をしており、三井家が後に松阪・江戸・京都で商いを拡大させるときに大きく役立ったとみられる[5]

寛永12年(1635年)、14歳の高利は殊法から渡された10両分の松阪木綿を手に江戸へ旅立った[6]。江戸に下った高利は長兄俊次の下、4丁目店で修行を重ね、その類まれな商才を発揮していく[7]。この当時の三井家の江戸店は俊次と重俊の呉服店の2つだったが、店が繁盛するにつれて仕入れの関係から俊次はもっぱら京都で仕入れを手掛け、江戸の呉服店は重俊に任されるようになった[8]。越後屋の屋号は重俊が江戸店を任されるようになった時代に使われ始めた[9]

重俊は、松阪の母を養う必要から寛永16年に帰郷、後釜として18歳になったばかりの高利が江戸店を任された[10]。しかし、俊次からその才腕を忌避されていた高利は、28歳のとき、亡くなった重俊の代わりに母の面倒を見るよう言い含められ、単身松阪へ帰国する[11]

松坂に帰国した高利は豪商の中川氏の長女・かねを妻に迎え、10男5女をもうける[12]。男子の子どもは15歳になると、江戸の商人の下に送って商売を見習わせた。松阪では、江戸での資金を元手に金融業にも乗り出して蓄財に励んだ[13]。この時期には、庶民相手の質業をやめ、大名貸・米貸・郷貸などの大口の金融業が商いの中心になった[14]。当時としては相当高利の貸付を行う金融業を営んでおり、この時期に巨額の資産を作った[15]

一方、帰郷して以降、高利が推薦した庄兵衛を手代頭に据え、江戸店の経営は正兵衛が、京都の仕入店は俊次が仕切っていたが[16]、延宝元年(1673年)、長兄・俊次が突然に病死したことを契機に、殊法の許しを得て、江戸進出を実行に移す[17]。このとき、高利はすでに52歳だった[17]。本町1丁目(現・東京都中央区日本橋本石町)に「三井越後屋呉服店」(越後屋。のちの三越) を開業[18]。同時に京都にも仕入れ店を置き、高利は松阪で金融業を営みながら長男・高平たちに指示を出し、店を切り盛りさせた[19]。このとき江戸で修行中の息子達は長男高平は21歳、次男高富は20歳、3男高治は17歳に達していた。
芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両

経験を積んだ息子や人を配し、呉服店を開店させたとはいえ、当時の江戸にはすでに老舗大店が幾店も軒を連ねていた[20]。当時の呉服屋は多額の資本が必要な商売だったので、高利が江戸店を開業した時は商品の数も少なく、仕入れ資本も脆弱だった[21]。そこで、高利は新機軸の商法を展開していく。

1つは、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}諸国商人売(しょこくあきんどうり) (末端の顧客ではなく、商人を相手にした卸売業) を始めた[22]。利潤は薄くなったが、取引量が多く在庫の滞留を減らすことができたために、大きな利益を上げた[22]

それよりも有名になった商法が「店前(たなさき)売り」と「現金掛値なし」だった[23]。それまでの呉服店は、代金は後日の掛け(ツケ)払いで、定価がなく客との交渉での駆け引きで売値を決める方法で、売買単位は1単位が当たり前、得意先で見本を見せて売る方法が一般的だった[24]。しかし、掛け売りは資金回収に時間がかかる上、支払いが滞れば大きな損失を抱えることになり、これが商品価格の高騰を招いていた[23]

高利は現金掛値無し(現金払いでの定価販売)、必要分だけ反物を切り売りし、店前(たなさき)売り(店頭で、現金を持っている人なら誰にでも販売する方法)を導入して繁盛する。これらは場末の小店舗で行われていた手法であり、中央の呉服店では体面の問題から導入していなかった[23]。呉服業界においては斬新であり、顧客に現金支払いを要求する一方で良質な商品を必要な分だけ安価で販売した(ツケの踏み倒しの危険性がないためにそのリスク分を価格に上乗せする必要性がなかった)ために、顧客にとっても便利な仕組みだった[25]。このほか、即座に仕立てて渡す「仕立て売り」も好評を呼び[26]、越後屋はやがて江戸の町人から「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と呼ばれ、1日千両の売り上げを見るほど繁盛した。だが、これらの方法はそれまでの呉服店間でのルールに反するため、繁盛ぶりに嫉妬した同業者からは迫害され、組合からの追放や引き抜き、不買運動などの営業妨害にあうようになった。天和2年(1682年)の江戸の大火災で越後屋1丁目・2丁目店が焼失したこともあって、天和3年(1683年)高利は、本町1丁目から隣町の駿河町へ店舗を移転させた[27]。駿河町に移転してからは商売はますます繁盛したが、その盛況ぶりについては井原西鶴の『日本永代蔵』の中に詳しく書かれている[28]。貞享4年(1687年)からは、江戸幕府が越後屋を御納戸御用達として取り立てたことから、大名を相手にした呉服業が始まった[29]。ただ、幕府や大名との商売はあまりうまみのあるものではなく、もっぱら越後屋の格式をあげることを目的に続けられていた[30]。越後屋の御納戸御用達は享保3年(1718年)まで続くが、享保の改革により成り上がりの商人は締め出され、以後は幕府と取引することはなくなる[31]

なお、この頃に店内の結束強化と他店との違いを明らかにするため暖簾印として「丸に井桁三」が定められた。着想は高利の母・殊法の夢想によるものと伝えられ、丸は天、井桁は地、三は人を表し、「天地人」の三才を意味している。


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