三井財閥
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三井財閥 
創業家:三井家
標章:丸に井桁三

三井財閥(みついざいばつ)は、三菱住友と並ぶ日本三大財閥の一つ。現在の三井グループ
江戸期.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}富嶽三十六景』二番「江都駿河町三井見世略図」(葛飾北斎)名所江戸百景』八番「する賀てふ」(歌川広重)それぞれ越後屋の暖簾をみることができる。2015年現在、通りの右側に三井本館、左側に三越日本橋本店がある。手前左右の通りが中央通り三井越後屋京本店記念庭園、高利が開いた京本店跡

三井家の歴史は、太政大臣藤原道長に発し、その後藤原右馬之助信生が近江に移って武士となり、初めて三井の姓を名乗ったという[1]

早川隆によると「三井財閥の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢(現在の三重県松阪質屋酒屋を開いたのが起源という。三井家はもともと近江の国佐々木氏の家来で、先祖は藤原道長といっているが、道長とのつながりは後から系図を作ったのかもしれない。」という[2]

三井高俊は質屋を主業に味噌の類を商った。店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、これがのちの「越後屋」の起こりとなる。高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て1673年延宝元年)越後屋三井呉服店(後の三越)を創業したのと同時に京都室町通蛸薬師に京呉服店(仕入れ部)を創業。その後京都や大阪でも両替店を開業し、呉服は訪問販売で一反単位で販売し、代金は売り掛け(ツケ払い)、という当時の商法をくつがえす、「店前売り」と「現金安売掛け値なし」(定価販売)などで庶民の心をとらえ繁盛。その後、幕府公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。

三井は幕府御用を全面的に歓迎した訳では無かったが、幕府との関係は初期の経営に重要な役割を果たし、公金為替による幕藩体制との密着度は深くなっていた。明治維新後、三井家は薩長主導の明治政府の資金要請に応え、政商の基盤を確固たるものにした。幕末・維新期を通して、日本政府は三井との関係無しでは存立がいかない状況となっていた[3]

余談だが、戦国期から近世初期にかけて活躍した大商人は外国貿易に従事した者、台頭しつつある新勢力で大名と結んで戦時用物資の調達にあたった者などであった。貿易商人としては、戦国時代から江戸時代にかけて、角倉了以茶屋四郎次郎末吉孫左衛門島井宗室末次平蔵他らがいる。貿易商人は鉄砲の輸入などで大名と結びつく機会があった、これらが初期豪商であった。このような政商的性格の強い初期豪商に対し、特定の専門商品を売買して城下町や江戸で商業活動を行う者が現れた。これらが近江商人・京都商人・伊勢商人などで、三井や鴻池住友などの近世本町人であった。
明治・大正期三井本館東京都中央区日本橋室町

明治維新後の中央集権政策の下、明治政府の三井家に対する諸御用の任命は、経済関係官庁未整備という条件のもとで経済政策技術の不足を補うために、政府は三井の巨商に期待したものであった。1872年越後屋呉服店(後の三越)を三井の本流から切り離し、1876年三井銀行(現在の三井住友銀行)を創業。また同年に井上馨益田孝によって設立された商社先収会社の解散を機に益田に三井物産会社を創設させ、さらに三井組内の商事組織である三井組国産方と合併させた。政府は1880年頃から官営工場を三井や三菱などに安く払い下げた。そのため紡績業などが盛んになり、日本の産業革命を担う事になる。

三井の転機は、明治十四年の政変で下野した山陽鉄道社長の中上川彦次郎と益田孝を三井元方重役に据えた事である。商業派の益田孝に対し、工業派の中上川彦次郎は慶應義塾の学生を多く入社させ、三井の工業化政策を多数押し進めた[4]。次いで不良債権問題に立ち至った三井銀行の建て直しをはかり、私鉄経営にも意欲を見せた(山陽鉄道、箕面有馬電気軌道阪急電鉄)。しかし、学閥を嫌う益田孝と中上川彦次郎の対立が鮮明となり、1909年持株会社・三井合名会社を頂点とするコンツェルン体制を確立し、團琢磨(主席)、朝吹英二波多野承五郎・有賀長文・小室三吉及び三井家から三井高泰(守之助)の5参事の合議制による運営体制に移行。また、傘下の中核企業を有限会社から株式会社へ移行した。1893年には三井鉱山が設立され、三井銀行三井物産、三井鉱山の御三家体制となる[5]

第一次世界大戦の好景気で三井財閥は産業が大きく伸張し、特に三井物産三井鉱山を起点に造船鉄鋼・石炭化学工業等の重化学工業分野への進出と三井銀行を起点に信託生命保険損害保険等の金融部分の拡充・多様化が進行した。また、三井物産を率いた山本条太郎は、中国大陸に積極的に事業を拡大し、満洲事変時に張学良軍へ塩を売り込みや上海事変時の中国・一九路軍への鉄条網用針金を売り込みを発端として中国革命への援助と満洲進出、商権拡張を行った。しかしながら、日本最大の財閥であるがゆえに、1927年(昭和2年)の昭和恐慌期に端を発した財閥批判が三井財閥に向けられ、3月5日には團琢磨血盟団員によって三井銀行本店前で暗殺された[6]

財閥攻撃の嵐の中で、三井総両家当主・三井高棟益田孝が協議し、三井合名理事・池田成彬を筆頭常務理事に指名し総帥に就任させる。池田は、11家からなる三井家を説得して財団法人三井報恩会を立ち上げ、定年制を採用するなど、大胆な財閥転向施策を実行。その後の日中戦争の勃発を契機に戦時体制へ移行した事から、財閥批判と攻撃は次第に沈静化し、三井財閥は戦時経済体制の有力な担い手となった[7]。また、政界にも多くの幹部を送り込み、立憲政友会は三井財閥が、立憲民政党三菱財閥が資金をまかなっていた[8]


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