三井芦別鉄道
概要
現況廃止
起終点起点:芦別駅
終点:頼城駅(玉川停留場
駅数12駅
運営
開業1940年11月25日 (1940-11-25)(専用鉄道として)
地方鉄道変更1949年1月20日
廃止1989年3月26日 (1989-3-26)
所有者同社
路線諸元
路線総延長9.1 km (5.7 mi)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
最小曲線半径220 m (720 ft)
電化全線非電化
最急勾配16.6 ‰
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停車場・施設・接続路線
凡例
0.000芦別駅
0.630高校通り停留場
3.510山の手町停留場
4.100三井芦別駅
5.100入山停留場
5.830中の丘駅
6.800幸町停留場
7.450緑泉駅
8.110西町アパート前停留場
8.670芦の湯前停留場
9.110頼城駅
9.910玉川停留場
三井芦別鉄道(みついあしべつてつどう)は、北海道芦別市で鉄道事業を行っていた鉄道事業者、あるいは同社が運営した芦別駅と頼城駅(玉川停留場)を結ぶ鉄道路線(三井芦別鉄道線)である。 専用鉄道時代には滝川機関区の蒸気機関車が石炭列車と便乗扱いの客車の運行に当たった。地方鉄道化後は混合列車が主体となったが、気動車導入により最盛期には女性車掌が乗務し一日20数往復した。末期は数往復の貨物列車が運行されていた。 1940年(昭和15年)12月開業の三井鉱山芦別専用鉄道(芦別 - 西芦別・後の三井芦別)が、その後延長され1949年(昭和24年)1月に三井鉱山株式会社芦別鉄道(芦別 - 頼城間)として地方鉄道に改組・開業したものである。 専用鉄道時代は滝川機関区の機関車が入線し石炭輸送に当たったが、地方鉄道化により機関車が増備された。1958年(昭和33年)1月には気動車3両が導入され旅客輸送の近代化が図られ、また炭鉱の合理化に伴い鉄道部門は1960年(昭和35年)10月に三井芦別鉄道株式会社として分離・独立した。1964年(昭和39年)11月には貨物部門の輸送力増強のために国鉄DD13形と同等の社形ディーゼル機関車が導入された。一方旅客部門は炭鉱合理化に伴う沿線人口の減少、並行バス路線の充実により、1972年(昭和47年)5月末に運行を取り止めた。残った石炭輸送も、三井芦別炭鉱の合理化に伴い1989年(平成元年)3月に廃止され、炭鉱自体も1992年(平成4年)9月に閉山となった。 芦別駅 - 高校通り停留場 - 山の手町停留場 - 三井芦別駅 - 入山停留場 - 中の丘駅 - 幸町停留場 - 緑泉駅 - 西町アパート前停留場 - 芦の湯前停留場 - 頼城駅 - 玉川停留場 年度旅客輸送人員(人)貨物輸送数量(トン)鉄道業営業収入(千円)鉄道業営業費(千円)
路線データ
路線距離(営業キロ):芦別 - 頼城(玉川間) 9.9km[1][2]
軌間:1,067mm
駅数:12駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:タブレット閉塞
交換駅 : 4駅(三井芦別駅、中の丘駅、緑泉駅、頼城駅)
運行形態
歴史
1940年(昭和15年)11月25日:三井鉱山専用鉄道 下芦別(現在の芦別) - 西芦別(のちの三井芦別)間4.1km開業。西芦別駅開業。
1942年(昭和17年)5月5日:旅客扱い開始。同時に社芦別駅開業。
1945年(昭和20年)12月15日:三井鉱山専用鉄道 西芦別 - 頼城間5.0km開業[1]。緑泉駅、頼城駅開業。
1946年(昭和21年)9月27日:社芦別駅廃止。
1949年(昭和24年)
1月20日:三井鉱山芦別鉄道として地方鉄道に改組[1]。下芦別駅を芦別駅に、西芦別駅を三井芦別駅に改称。
9月15日:中の丘駅開業。
1958年(昭和33年)
1月:気動車3両を導入し客貨分離を図る
1月20日:高校通り停留場、山の手町停留場、入山停留場、幸町停留場、西町アパート前停留場、芦の湯前停留場開業。
1959年(昭和34年)?月?日:頼城駅構内に玉川停留場が開業(駅間0.8km)。
1960年(昭和35年)10月1日:三井鉱山芦別鉄道が三井芦別鉄道に譲渡される
1964年(昭和39年)11月:50tディーゼル機関車導入。
1972年(昭和47年)6月1日:旅客営業廃止[1]。気動車全廃[1]。停留場は事実上休止。
1989年(平成元年)3月26日:芦別 - 頼城(玉川)間地方鉄道事業廃止(廃線)[1]。全駅・停留場廃止。
駅一覧
接続路線
芦別駅:根室本線
輸送・収支実績
19522,478,527780,791
19583,612千631,630
19632,309千1,047,611
19661,943千1,458,731
Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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