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みかみ みちお
三上 陸男
生年月日 (1935-04-08) 1935年4月8日(89歳)
出生地 日本 東京都
国籍 日本
職業造形家、特撮監督、映画美術監督、インテリアデザイナー
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三上 陸男(みかみ みちお、1935年4月8日[1][2][3] - )は日本の造形家、特撮監督、映画美術監督、インテリアデザイナー。東京都出身[3]。 東京に生まれる[1][2]。1954年(昭和29年)、前年に画家を志し、東京芸術大学を受験するが失敗。浪人中に東宝砧撮影所で日本初の本格特撮怪獣映画『ゴジラ』(本多猪四郎監督)の特撮現場にアルバイトで参加[1][2][3]。渡辺明に師事する。 1956年(昭和31年)の『空の大怪獣 ラドン』、1957年(昭和32年)の『地球防衛軍』といった東宝のSF特撮映画に参加し、東宝内に開設された特殊技術課の特殊美術係で特殊造形、ホリゾント描画、ミニチュア制作といった特撮映画の技術を学ぶ[1][2]。このあと、武蔵野美術大学に合格[1][2]。 1959年(昭和34年)、松竹京都撮影所で松竹映画の『高丸菊丸 疾風篇』(丸根賛太郎監督)に参加[1][2]。これをきっかけに武蔵野美大を中退[1][2]。大映の美術スタッフとなる。大映の美術スタッフの八木正夫(1957年入社)と懇意となる[1][2]。 1961年(昭和36年)、大映京都撮影所で日本初の70mm総天然色スペクタクル映画『釈迦』(三隅研次監督)に参加[2]。 1962年(昭和37年)、『鯨神』(田中徳三監督)に参加[2]。 1963年(昭和38年)、大映東京撮影所で、特撮パニック映画『大群獣ネズラ』に参加するが、「生きたネズミを使う」という撮影方法が衛生問題(#人物・エピソードにて後述)となり、組合争議にまで発展して撮影中途で頓挫。 1965年(昭和40年)、大映の井上章の招きにより、同社初の怪獣映画『大怪獣ガメラ』(湯浅憲明監督)の特殊美術を担当[4][3]。この映画では前年大映を退社していた八木正夫がガメラの特殊造形を担当しており、大映には怪獣造形、ミニチュア制作含めて大規模特撮の技術も技術者もなかったため、八木は村瀬継蔵や三上を集めて、特撮美術全般をまかなった。 この時集まったメンバーで、八木正夫が造形会社「エキスプロダクション」を創設。三上も役員としてこれに参加[注釈 1]。営業も含め、映画美術全般の進行を務める。 1966年(昭和41年)、『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』(田中重雄監督)、『大魔神怒る』(三隅研次監督)、『大魔神逆襲』(森一生監督)、東映京都の『怪竜大決戦』(山内鉄也監督)など京都・東京の撮影所にまたがってエキスプロで美術担当。特殊造形、美術だけでなく、特撮にも参加している。 1967年(昭和42年)、大映で『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス[注釈 2]』(湯浅憲明監督)、テレビ番組では宣弘社の『光速エスパー』(日本テレビ)、東映の『キャプテンウルトラ』(TBS)、東映京都の『仮面の忍者 赤影』(関西テレビ)などで特殊美術を担当。この年、エキスプロは韓国の「極東フィルム」制作の怪獣映画『大怪獣ヨンガリ』(キム・ギドク監督)に参加。韓国初の怪獣映画の特殊美術を務める[1]。 1968年(昭和43年)、松竹映画太秦でピー・プロダクションのスタッフと共に『吸血鬼ゴケミドロ』(佐藤肇監督)、大映東京で『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』(湯浅憲明監督)、大映京都で『妖怪百物語』(安田公義監督)、『妖怪大戦争』(黒田義之監督)に参加。翌年の『東海道お化け道中』(安田公義監督)まで続くこの「妖怪シリーズ」では多数の妖怪群の造形に携わる。 1971年(昭和46年)、東映のテレビ番組『仮面ライダー』(毎日放送)の企画立ち上げに参加[5]。放送開始まで2ヶ月しかない中、現場を指揮し、自身では敵組織「ショッカー」の美術造形全般を手掛けた[5][2]。
来歴
大映時代
エキスプロ時代
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