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三上 寛
別名少年A
生誕 (1950-03-20) 1950年3月20日(74歳)
出身地 日本 青森県北津軽郡小泊村
学歴青森県立五所川原高等学校卒業
ジャンルフォーク
ブルース
アシッド・フォーク
職業フォークシンガー
俳優
詩人
担当楽器ボーカル、ギター
活動期間1971年 - 現在
公式サイトhttps://ameblo.jp/kan-mikami/
三上 寛(みかみ かん、1950年〈昭和25年〉3月20日 - )は、日本のフォークシンガー、俳優、詩人。青森県北津軽郡小泊村(現・中泊町)出身。 小泊村立小泊小学校(現・中泊町立小泊小学校)時代には、後に現代詩の手解きを受けることになる(アレン・ギンズバーグなどの存在も教わる)泉谷明[2]と出会う[1][3][4][5]。 1960年代から活動した日本のフォークシンガーは、音楽を始めたきっかけとして、ボブ・ディランなどを挙げる人が多いが[6]、三上のギターを弾き始めたきっかけは、小林旭の『渡り鳥シリーズ』だという[6]。青森県立五所川原高等学校在学中は、生徒会長を務めたことがあり、バンドを組んでザ・タイガースやジャッキー吉川とブルーコメッツなどをカバーしていた。作詞も高校一年から始め、バンドでは自作のオリジナル曲を演奏したこともあるという[要出典]。1967年にはガリ版刷り詩集『白い彫刻』を自費出版。同郷の詩人寺山修司の眼にとまり、「寛は詩がうまい」と言われたともいう[7]。 高校卒業後、青森県警に採用され警察学校に入学したが[8]、在学中に盗みを働いたと疑われ退学となり(ただしこれは濡れ衣を着せられた冤罪であり、後に真犯人が逮捕されている。)、1968年秋に詩人になりたい気持ちを秘めながら上京[1]。 初めは片瀬江ノ島駅近くの割烹料亭「角若松」での板前見習いに就くも[9][10]、岡林信康の「山谷ブルース」を聞いた衝動で退職を決意。1969年1月31日に東京へ出て、翌日から中野区の新聞販売店で住み込み勤務を始め[1][9]、詩を書き溜めていった。配達先のスナックのマスターの紹介で、田原総一朗(当時は東京12チャンネルのディレクター)と会い、永山則夫を題材にした『ピストル魔の少年』(高卒の三上にとって当時の大学生を中心とした学生運動よりも強い重要性を感じた事象であり[1][11]、永山事件の芝居化も計画していた[12])を歌う[1]。
来歴・人物