三ツ矢サイダー
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三ツ矢サイダー種類炭酸飲料
製造元アサヒ飲料
販売元アサヒ飲料
発祥国 日本
販売開始1884年 (140年前) (1884)
透明
公式サイト三ツ矢
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三ツ矢サイダー関連商品のリターナブルびん
左から
1:三ツ矢シャンペンサイダー(1950年代)
2:三ツ矢サイダー(1960年代)
3:三ツ矢サイダー(1972年)
4:バャリースオレンヂ(1952年)
5:バャリースオレンヂ(1970年代)
6:ウヰルキンソンタンサン(1940年代)
7:ウヰルキンソンタンサン(1950年代)
8:ウヰルキンソンジンジャーエール(1970年代)

三ツ矢サイダー(みつやサイダー)は、アサヒ飲料発売している炭酸飲料サイダー。同社の登録商標(日本第850875号ほか)でもある。
歴史1.5Lペットボトル入り三ツ矢サイダー(2007 - 2009年)+1977年のオリジナルグラス「キラキラグラス」びん入り(三嶋大社で 2008年撮影)

三ツ矢サイダーは、兵庫県川辺郡多田村字平野(現在の川西市平野 多田銀山の一部)で平野鉱泉が発見されたことにはじまる。かつてこの地では摂津三湯に数えられた名湯「平野の湯」と呼ばれる炭酸泉の湯治場があったが、江戸時代末期には廃れていた。明治時代に入り、外国人接待用の炭酸水を調達するために宮内省の命を受けて全国の水源を調査していたイギリス人理学者ウィリアム・ガランによって1881年に平野鉱泉が再発見され、炭酸水の御料品工場[注釈 1]が建設された[1]

1884年三菱財閥宮内庁から多田銀山の払い下げを受け、三菱商会が「平野水」として炭酸水を販売。1885年には明治屋が採取権を得て、源満仲にまつわる当地の言い伝えから「一本矢礦泉」に改名して販売。1889年には「三ツ矢平野水(みつやひらのすい)」の名称で販売された。しかし販売不振が続いたため、1905年には三ツ矢平野礦泉から販売された。なお平野水は夏目漱石も愛飲しており『行人』・『思い出す事など』にも登場、また大正天皇皇太子時代の1897年には御料品としても採用された[2]

1907年に帝国鉱泉株式会社(旧 三ツ矢平野鉱泉合資会社)[注釈 2]が設立され、従来の平野水を元に、砂糖を煮詰めた茶褐色のカラメルイギリスから輸入したサイダーフレーバー[注釈 3]を加えた「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」を発売し、1921年に「三ツ矢シャンペンサイダー」に改称されて販売された[1]

1921年に加富登麦酒が帝国鉱泉株式会社と日本製壜を吸収合併し日本麦酒鑛泉株式会社[注釈 4]となり[3]1933年大日本麦酒株式会社[注釈 5]と併合されたが、「三ツ矢シャンペンサイダー」は日本麦酒鑛泉のユニオンビールと共に引き続き製造販売された。

太平洋戦争ではサイダーは軍需品だったため製造が続けられていたが、末期には工場を軍需工場として貸し出されたり、戦災で設備の一部を焼失するなどしていたため、終戦の翌年の1946年7月まで製造が中断されていた時期があった。1946年7月から製造が再開されたが、政府による砂糖の配給が行われていたため、使用が解禁されたばかりの人工甘味料ズルチンに切り替えて製造再開(のちにズルチンの安全性に疑問が出たため、自主的に使用中止)。1951年には砂糖の配給が終了したことから、砂糖を使った「全糖三ツ矢シャンペンサイダー」も発売[4]。なお「シャンパン」の名称使用について、フランスのシャンパン企業から全国清涼飲料連合会に抗議が来たため、1968年に「三ツ矢サイダー」に改名した[1]

大日本麦酒株式会社は、GHQが指示した過度経済力集中排除法による会社分割で、1949年朝日麦酒株式会社[注釈 6]日本麦酒株式会社[注釈 7]に分割され、三ツ矢サイダーはユニオンビールと共に朝日麦酒が継承し、戦前までの「アサヒビール・リボンシトロン」の組み合わせから「アサヒビール・三ツ矢サイダー」の組み合わせに代わった。

なおアサヒビールは、1950年代半ばからビールの販売低迷が始まり、一時は市場占有率10%を切り、会社存続が危ぶまれたが、1987年昭和62年)にアサヒスーパードライのヒットで、業績復活するまでの約30年間の経営を支えたのは、三ツ矢サイダーの利益だった[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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