三つ葉葵
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三つ葉葵が描かれたひょうたん型の蒔絵酒器江戸時代、18世紀、メトロポリタン美術館

三つ葉葵[1]・三葉葵[2][3][4]・三つ葵[5]・三葵[6]・葵巴[5][4](みつばあおい・みつばあおい・みつあおい・みつあおい・あおいどもえ)は、日本家紋「葵紋」の一種で、葵の葉を3つ描いた図案の家紋のことである。通常「三つ葉葵」といえば徳川家の用いた「丸に三つ葉葵」のたぐいの紋を指すことが多い。
葵紋葵紋の一例(二葉葵)

葵紋(あおいもん)はウマノスズクサ科フタバアオイを図案化したもので、フタバアオイの通常の葉の数は2枚である。3つの葉をもつフタバアオイは稀で、三つ葉葵は架空のものである。葵祭に見られるように賀茂県主氏の象徴であり、葵紋は賀茂神社神紋(二葉葵・加茂葵)になっている。

その賀茂氏との繋がりが深い三河国武士団は、葵紋を家紋としてきた。これにより三河武士である徳川家が葵紋を使用していることは、徳川家が清和源氏河内源氏)系新田氏世良田氏得川氏)の末裔ではなく賀茂県主氏の末裔ではないかとの説の根拠ともなっている。『見聞諸家紋』では、丹波国西田氏の二葉葵が載るが、この西田氏も賀茂神社の氏子であるのが葵紋使用の由来である。

豊臣家が滅んだ後、徳川家康の権威が上がると徳川家使用紋の葵紋は特別な家紋となっていった。家康が征夷大将軍となった後、次第に他家の三つ葉葵に限らず葵紋の使用がはばかられるようになり、松平家へは遠慮させ、伊奈家には禁止させている。一方で徳川家家臣である本多家(本多家は葵紋にこだわり「丸に立葵」の紋の使用を許された)や准家門の鳥取池田家(池田光仲は家康の曾孫にあたり鳥取城中ノ御門表門(大手門)周辺からは葵紋瓦が出土している[7])のように一部葵紋の使用を許されることもあった。

また、この制限によって、葵紋の形状に倣った紋を河骨紋と称して用いる一族や家が現れたと考えられている[8]。このように徳川将軍家以下一門に制限されていたというが、江戸初期では御用商人の長持などの道具に描かれていたという。また、正式に制限されたのは、享保8年(1723年)のことである[8]
三つ葉葵

外郭が、「丸輪(丸)」であるもののほかに、「隅切り角」や「隅切り折敷」(守山三つ葵・西条三つ葵など)のものや「五環」、「菊輪」であるものもそういう。いずれも、徳川一門の使用紋であるが、御家門御連枝などの松平家の中では替紋蔦紋五三桐唐団扇などを使用することがあった。
由来

由来には、本多家に由来する説と酒井家に由来する説、松平家の元々の家紋であるとする説、などがある。

『日本家紋総覧』には、『改正三河後風土記』より酒井家に由来する説、『本多家譜』より本多氏と交換したという説、『三河後八代記』の「本多氏覚書」より家康が自ら考案したという説、ほかに松平氏を継ぎ、その家紋を踏襲した、という説を掲載している。

平岩親吉著とする『三河後風土記』は酒井氏を由来としている。その、三河後風土記を幕府の儒学者である成島司直が天保年間に校正した『改正三河後風土記』には、家祖が賀茂の社職であったという本多中務大輔家(本多忠勝の家系)より徳川家へと献上されたものとしている[9]

柳営秘鑑』「葵之御紋来由」には、文明7年7月の安祥合戦のさいに、酒井長衛門尉氏忠が丸盆の上に葵の葉を3つ敷きその上に熨斗、栗、昆布を盛って3代松平信光に献上したことにより合戦にて勝利をおさめたことから、酒井家の紋とするように下賜されたが、のちの5代松平長親の時に松平家の家紋として定めたため、酒井家には図案が似た酢漿草紋が下賜されたとある。『酒井家世紀』には、三つ葉葵を召し上げた代わりに、三つ葉葵の図案に似せた酢漿草紋を与えたとある。[10]

『岡崎市史』は、もともと松平太郎左衛門家の紋であるとしている。また、松平親氏・泰親が松平村に入った後、賀茂明神に祈願し家紋とした、または、松平氏が賀茂源氏または賀茂朝臣と称して葵を家紋とした、という説を挙げている。『徳川世紀』には、三河国加茂郡に移り住んだ松平親氏の子孫が「加茂朝臣」を名乗り巴形に描いた葵紋を家紋としたとある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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