万里小路藤房
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 凡例万里小路藤房
伝万里小路藤房像(『集古十種』より)
時代鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕永仁4年(1296年
死没不詳
改名惟房(『尊卑分脈』[1])→藤房
官位正二位中納言右衛門督検非違使別当
主君花園天皇後醍醐天皇
氏族藤原北家勧修寺流万里小路家
父母父:万里小路宣房
兄弟藤房、季房、土御門親賢室、中納言親実室、菊池武士
子養子:仲房[2]
特記
事項授翁宗弼と同一人とする俗説あり
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万里小路 藤房(までのこうじ ふじふさ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿大納言万里小路宣房の一男。官位正二位中納言後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では恩賞方頭人や雑訴決断所寄人など要職を担った。だが、突如、世を儚んで出家した。本姓の「藤原」により藤原藤房とも言う。江戸時代儒学者安東省菴によって、平重盛楠木正成と共に日本三忠臣の1人に数えられている。
経歴

文保2年(1318年)2月後醍醐天皇践祚に際して、蔵人に補任。以後、弁官として累進し、中宮亮記録所寄人相模権守などを兼ねる。元亨3年(1323年)1月蔵人頭に補されたが、同年に弟季房も弁官となったため「兄弟弁官例」と称された。同4年(1324年)4月参議に任じられて公卿に列し、正中3年(1326年)春、従三位権中納言に叙任。嘉暦2年(1327年)7月左兵衛督検非違使別当を兼ね、元弘元年/元徳3年(1331年)中納言に転正し、正二位に叙された。

同年天皇の倒幕計画が露見したため(元弘の変)、8月四条隆資北畠具行と共に天皇に供奉して笠置山へ逃れた。1か月に及ぶ幕府軍との攻防の末、9月28日には笠置山が陥落し、藤房は天皇を助けて敗走するも、翌日有王山で捕捉されてすぐに解官となる(『公卿補任』)。10月宇治平等院から六波羅に移送され、武蔵左近大夫将監[3]の許へ預けられた。元弘2年/正慶元年(1332年)4月幕府から遠流の処分が伝えられると、5月京都を発って常陸国に下り、小田治久(高知)の藤沢城に籠居。この間、治久に対する与同勧誘が功を奏したのか、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月には治久を伴って上洛し、復官を果たした。

元弘3年(1333年)、四番制の初期雑訴決断所(訴訟機関)の寄人に任じられている。建武元年(1334年5月18日 には、恩賞方四番のうちの三番局(畿内山陽道山陰道担当)の頭人に任じられており、建武政権でますます重きを為した(『建武記[4])。同年8月中に、雑訴決断所が八番に拡充された際にも、やはり寄人に選ばれている(『建武記』[5])。

ところが、同年10月5日に出家(『公卿補任』[1])。史料では「俄遁世」(にわかに出家してしまった)とあるばかりで(『尊卑分脈[1])、理由は一切不明である。この時代、人生の絶頂期に出家願望を持つ事例は足利尊氏などにも見られる。その後の消息は不明で、相国寺に住したと伝える(『尊卑分脈[1])他、各地に伝承が散見する(後述)。

日記『藤房卿記』は僅かに正中3年(1326年4月26日の抜書「嘉暦元年改元記」が伝存するのみで、翻刻が『歴代残闕日記55』に収められている。


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