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元暦校本万葉集
「万葉集」(まんようしゅう、まんにょうしゅう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:萬葉集)は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である[1]。 万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている(万葉仮名を含む)[注 1]。 天皇、貴族から下級官人、防人(防人の歌)、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある[1][3][4][注 2]。7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年(宝亀11年)ごろにかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる[1]。完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集がもっとも古い[6]。 和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「菟原処女の伝説」)、日本文学における第一級の史料であるが[1]、方言による歌もいくつか収録されており、さらにその中には詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重要な史料である。 日本の元号「令和」は、この万葉集の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の一節を典拠とし、記録が明確なものとしては日本史上初めて元号の出典が漢籍でなく日本の古典となった[7][8]。 『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の『万葉集註釈』では、『古今和歌集』の「仮名序」に、やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける とあるのを引いている。ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るため、この語釈が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま『万葉集』の由来としてあてはめることには疑問もある。 そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖[9]や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}研究者の間で主流になっているのは、『古事記』の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である[要出典][誰によって?]。 なお、「万葉(萬葉)」という言葉は、当時において『万葉集』以外では用いられている事例はほとんど見られず、早い事例として、延暦25年(大同元年・806年)4月16日に五百枝王が平城天皇に対して臣籍降下と春原朝臣の賜姓を願い出た際の上表文に「榮宗枝於萬葉」という句が見られるのが挙げられる(『日本後紀』)。なお、この五百枝王を『万葉集』を今日知られる形にした最終的な編者に充てる説があり(後述)、この上表文も五百枝王が『万葉集』の編纂及び表題決定に何らかの関与をした状況証拠とする研究者もいる[10][11]。
概要
成立
書名の由来