万年東一
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万年 東一
生誕 (1908-09-10) 1908年9月10日
大日本帝国 山形県飽海郡松嶺町
死没 (1985-03-28) 1985年3月28日(76歳没)
日本 埼玉県所沢市
所属組織 大日本帝国陸軍 上海特務機関
軍歴1939年/1940年1943年召集 - 1945年
(同年10月、佐世保港に復員
除隊後事業家、右翼活動家、愚連隊首領、総会屋全日本女子プロレス初代会長
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万年 東一(まんねん とういち、1908年明治41年〉9月10日 - 1985年昭和60年〉3月28日)は、日本の元・陸軍軍人上海特務機関)、右翼活動家、愚連隊の首領、総会屋右翼団体大日本一誠会初代会長。全日本女子プロレス初代会長。山形県飽海郡松嶺町出身。
来歴

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明治41年(1908年)9月10日に山形県飽海郡松嶺町で生まれた。父は小学校の教頭だった。東一は次男だったが、長男は生まれてすぐに死亡した。

大正8年(1919年)、父が東京の親戚の事業を手伝うことになり、一家で上京した。

同年、父が手伝った事業は失敗し、父は裁判所の書記官に任官した。一家は京王線の沿線に住んだ。

大正13年(1924年)4月、東洋商業学校(後の東洋高等学校)に進学。京王線の線路伝いに歩いて新宿に出ていたが、途中で会った不良と喧嘩を繰り返した。

昭和2年(1927年)4月、東京高等工商学校(後の芝浦工業大学)に進学。

その後、東京高等工商学校のボクシング部に所属。

その後、大和拳闘倶楽部(その後「国光拳闘倶楽部」と改称。後の中村ジム)を創設した。新宿渋谷の不良の頭目・万年東一、万年の舎弟で恵比寿の不良の頭目・田村安太郎、万年の舎弟で中目黒の不良の頭目・小池農夫雄が、大和拳闘倶楽部を主宰した。

昭和5年(1930年)ごろ、大和拳闘倶楽部には、小林光也(通称は小光。「人斬り小光」、「村雨の光」とも呼ばれた)、斉藤光也(通称は大光。「ジャジャ馬の光」とも呼ばれた)、慶應義塾大学学生の宮崎秋夫(通称は小桜の秋)、日本大学水泳部の学生の内富義之、元トラック運転手の八重野勝雄(通称はオートンの勝)、幽霊の政、抜剣の文、花魁の政、フランス政、小桜の茂、小桜の謙が集まり、万年東一の舎弟となった。このころ、愚連隊が形成された。万年一派は、小池農夫雄の新婚所帯場所だった中目黒の「アサクラアパート」を本拠として、他の愚連隊と喧嘩を繰り返した。

同年7月10日、警視庁は、麻雀屋の新設を禁止した。万年は、新しい麻雀屋を開拓できなくなった。

同年11月24日、警視庁は、エロ演芸取締規則を、各警察署に通知した。盛り場の快楽を求める愚連隊には、打撃を与えた。

昭和6年(1931年)、東京高等工学校を卒業し、明治大学に入学した。

昭和7年(1932年)、明治大学を中退した。

同年、父から金を借りて、玩具製造会社とタクシー会社を立ち上げた。万年の玩具製造会社とタクシー会社は、従業員に金を持ち逃げされて、倒産した。以後、「銭儲けはやめる」と決意した。

昭和8年(1933年)1月21日、警視庁は、バー・カフェ・喫茶店などを対象に、特殊飲食店営業取締規制を発布した。愚連隊は、溜まり場を失った。

同年、四代目小金井一家・平松兼三郎総長(通称は台湾兼、水車兼、ブル兼)から「万年東一を跡目養子にしたい」という申し出を受けたが、断った。平松兼三郎は、横浜博徒一家の代貸で、東洋拳闘協会会長・鈴木武雄を跡目養子にし、万年に鈴木のボディガードを依頼した。万年はボディガード役を了承した。

同年秋、万年東一一派は、新宿2丁目の六間道路から四谷方面に入ったアパート「文化ハウス」の2階に拠点を移した。万年は舎弟たちに1日3回の喧嘩を目標とさせた。

昭和9年(1934年)、新宿の愚連隊の首領・山崎松男(通称は爆弾マッチ)が、小金井一家に対して、賭場の開帳を要求した。平松兼三郎は、山崎松男の行為を非難し、万年東一に「最近の愚連隊はうるさくていけないな」と語った。万年は山崎との対決を決断した。

同年8月2日[1]夕方、新宿2丁目の六間道路の喫茶店「オーライ」にいた小林光也と斉藤光也が、カフェ「黒猫」前にいた山崎松男と山崎松男一派を発見した。山崎たちは、鈴木武雄を取り囲み、因縁をつけていた。そのときは、雨が降っていた。小林と斉藤は「文化ハウス」に戻り、日本刀と短刀を持ち出して、カフェ「黒猫」前に行った。斉藤が日本刀で山崎の左手首を切り落とした。小林は短刀で山崎の舎弟1人の腹を刺した。

同日、万年東一、斉藤光也、小林光也は、淀橋警察署自首した。

同年、右翼団体風雲倶楽部主宰者・千々波敬太郎が、大和拳闘倶楽部のマネージャーを通じて、万年に面会を求めてきた。千々波は東京三田功運町で柔剣道の鍛錬場「光風塾」を経営していた。万年は千々波と会談し風雲倶楽部と提携した。万年は万年の若衆を光風塾に住み込ませ、鍛錬に参加させた。小林、斉藤、宮崎秋夫らは右翼活動に反対し、万年の元から去った。最終的に、内富義之、八重野勝雄、山田勇吉の3人だけが、万年の元に残った。

同年12月21日、番町地方裁判所で、万年には懲役2年・執行猶予3年の判決、斉藤には懲役5年の実刑判決、小林には懲役4年の実刑判決が下された。

同日、万年東一は、番町地方裁判所を出ると、平松兼三郎ら100人ほどの小金井一家の者から迎えられた。その後、新宿2丁目六間道路の料亭「鳥源」2階座敷で、平松らとともに万年の釈放祝いが行なわれた。山崎松男はコルト・レボルバー38口径を持って、「鳥源」に侵入し、2階への階段を上がるときに、万年の若衆に発見された。山崎は万年の若衆をコルトの銃把で殴り倒し、銃弾を1発発射した。内富義之は、座敷の小火鉢を抱えた。山崎松男は、階段を駆け上がり、八重野勝雄を銃撃した。銃弾は、八重野勝雄の太腿に命中した。内富義之は小火鉢を山崎に投げつけ、命中させた。山崎は拳銃で2発乱射したが、柱と壁に当たっただけだった。山崎は平野を出すように要求した。平野兼は山崎と対峙し、「命をくれてやろう。万年東一もくれてやるよな」と言った。山崎は平野と万年を撃たずに、拳銃を捨てた。数日後、新宿大木戸の料亭で万年と山崎は和解した。

昭和13年(1938年)3月3日、安部磯雄襲撃事件が勃発した。詳細は「安部磯雄襲撃事件」を参照

昭和14年(1939年)10月、召集されていた斉藤光也が、兵営から脱走した。憲兵隊が万年や小林光也のところに捜索に来た。万年や小林は一緒になって斉藤を探した。

同月、斉藤光也は、熱海の袖ヶ浦の崖から、愛人とともに、投身自殺した。


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