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万世橋駅(まんせいばしえき、旧字体: 萬世橋驛)は、以下に記載する2つの駅が存在した。
国鉄中央本線に存在した駅。
東京地下鉄道に存在した駅。
いずれも現在は、廃止駅(中央本線万世橋駅は、法規上は国鉄の駅として休止中)である。駅名は神田川に架かる万世橋に由来する。
本項は双方の駅について扱う。
国鉄 万世橋駅[ソースを編集]
国鉄 万世橋駅
関東大震災前の万世橋駅の着色写真。初代駅舎は赤レンガの高層建築だった。駅前には広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像と旧中央通りを行く東京市電上野線、右手後方には東京駅延伸後の中央線高架が見える。万世橋はその高架のすぐ先にある。
1919年から1923年頃までと推定される。
まんせいばし
Manseibashi
◄神田 (0.6 km) (0.7 km) 御茶ノ水►
所在地東京府東京市神田区
(現在の東京都千代田区).mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分50.8秒 東経139度46分11秒 / 北緯35.697444度 東経139.76972度 / 35.697444; 139.76972 (国鉄 万世橋駅)座標: 北緯35度41分50.8秒 東経139度46分11秒 / 北緯35.697444度 東経139.76972度 / 35.697444; 139.76972 (国鉄 万世橋駅)
所属事業者運輸通信省鉄道総局(国鉄)
所属路線中央本線
キロ程1.9 km(東京起点)
開業年月日1912年(明治45年)4月1日
備考1943年(昭和18年)11月1日休止
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国鉄万世橋駅は、国有鉄道(休止時、運輸通信省鉄道総局)中央本線にあった駅。東京都神田区(設置当時東京府東京市神田区、現: 千代田区)の神田駅と御茶ノ水駅との間にあった。
前史[ソースを編集]
神田川に面する万世橋界隈は江戸時代から繁栄していた。万世橋の南側に位置する田町(後の多町、現・神田多町)には、青物商が集まっていた。青物商は17世紀初期(慶長年間)から田町、連雀町、佐柄木町に散在しており、1657年(明暦3年)の明暦の大火の直前には81軒まで増えていたが、同大火の後、多町にまとめられた。享保の改革が行われた1724年(享保9年)に幕府御用達となってからは急速に発展し、後の神田市場の母体となる。神田川北岸には、米、薪炭、竹などの問屋があったほか、職人仕事の諸材料の荷受け地でもあった。幕末期には、住宅地としても発展した。幕府が財源確保のために、ところどころを町人に貸したこともあって、神田っ子の町が育って行った。
明治以降、更に発展した。主に洋服生地を扱う問屋街が周辺に形成された。万世橋駅前の連雀町(今は神田須田町 - 神田淡路町の一部)には、飲食店、寄席、映画館が次々と開業した。現在も「神田食味街」などと呼ばれる一画がある。
歴史[ソースを編集]
当駅を計画したのは私鉄の甲武鉄道である。甲武鉄道は1889年(明治22年)4月11日、立川駅 - 新宿駅間を開通させた後は都心への延伸を進め、全通後は当駅をターミナルとする予定であった。しかし、甲武鉄道は1906年(明治39年)3月31日に国有化されたため、1912年(明治45年)4月1日昌平橋駅から延伸開業した際には鉄道院の駅となっていた。
初代の駅舎は豪華であった。東京駅と同様に辰野金吾の設計による赤煉瓦造りで[1]、一等・二等待合室、食堂、バー、会議室等を備えていた。また、貨物用のエレベーターも整備されていた。中央本線のターミナルとしてだけでなく、ここから両国駅方面への総武線の敷設計画をも見据えたものであった。駅前には広場が設けられ、日露戦争の英雄である広瀬武夫と杉野孫七の銅像が建っていた。東京市電が走り、多くの人で賑わった。
しかし、1919年(大正8年)3月1日、当駅 - 東京駅が開通し、一中間駅となるとともに、同年東京駅との間に神田駅が開業。1925年(大正14年)11月1日には、上野 - 神田間の高架線が開通し、近隣で秋葉原駅が旅客営業を始めた。これにより、ターミナル駅としての地位を失い、また近隣に神田駅・秋葉原駅が設置されたこと、上野駅以北へ市電への乗換駅としての需要が減少したことなどの理由から、利用客は減少。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で駅舎が焼失し[1][2]、遺体安置所に利用された後、簡素な駅舎が再建された。また、須田町交差点移転に伴い市電のルートが変わり、1929年(昭和4年)以降は市電が駅前を通らなくなった(万世橋・須田町・淡路町の停留所が近隣にあり、徒歩で乗り換えることは可能だった)。
1936年(昭和11年)4月25日、東京駅から鉄道博物館が移転。駅舎は解体縮小され、博物館に併設された小屋となった(閉鎖後は博物館の事務室に使われた)。