万世一系
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剣璽等承継の儀
1989年(昭和64年)1月7日

万世一系(ばんせいいっけい、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:萬世一系)は、永久に一つの系統が続くこと。多くは皇室皇統天皇の血筋)についていう[1]
意義岩倉具視伊藤博文

慶応3年(1867年)10月、岩倉具視は、「王政復古議」に「皇家は連綿として万世一系礼楽征伐朝廷より出で候」(原文カタカナ)と指摘した。これが「万世一系」の語の初出である[注 1]

1889年(明治22年)『(旧)皇室典範』制定に当たって伊藤博文は、皇位継承における万世不変の原則として、以下の3項目を挙げた[2]。第一 皇祚を踐むは皇胤に限る
第二 皇祚を踐むは男系に限る
第三 皇祚は一系にして分󠄁裂すべからず

大日本帝国憲法では次のように記されている。
第一條
大日本帝?國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治

民間でも大日本帝国憲法に対抗して私擬憲法が盛んに作成されたが、ほとんどが万世一系に言及している[注 2]。万世一系の例外規定を設けているのは『憲法草稿評林』のみで、「臣民中ヨリ皇帝ヲ撰立」と規定し、皇位継承者が断絶した場合の天皇の選挙制を提案した[3]
起源と正統性天照大神

古事記』には天照大神が孫のニニギに「この豊葦原水穂国は、汝の知らさむ国なり」とある[注 3]。『日本書紀』には「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」とある。

大日本帝国憲法第1条は万世一系を明文化したものである。
歴史
「万世一系」論の始まり

[4]

この言葉の初出は上記の「王政復古議」だが、「日本は、王朝交代したことがない点で他国と基本的に異なる」という信念自体は、日本の王朝と同じくらい古くからあった。

大伴家持は自分が仕えた聖武天皇を称える次のような和歌を残している(下記の現代語訳は日本学術振興会の英訳から)。大伴家持葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天降(あまくだ)り 知らしめしける 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代(みよ)重(かさ)ね
天あまの日継(ひつぎ)と 知らし来くる 君の御代御代(みよみよ)敷きませる 四方(よも)の国には 山川を 広み淳(あつ)みと
奉る 御調宝(みつきたから)は 数え得ず 尽くしも兼ねつ ? 大伴家持、『万葉集』巻一八日本を天から下ってお治めになった天孫降臨の神々が治める時代を重ねて
天照大御神の後継ぎとして治めてこられた天皇の治世ごとに
治められる畿内周囲の国々は山も川も広々と豊かなので
奉る貢ぎ物や宝物は数えきれないほどで、挙げ尽くせない。 ? 大伴家持、『万葉集』巻一八 (現代語訳)

この和歌では天皇の家系が長いと述べているが、どれほど長いかは言及していない。聖徳太子

日本書紀』は、神武天皇が即位した年を王朝の起点とした。聖徳太子は、この日付を初めて定式化した。この日付は日本人に自国の建国日として受けとめられた。国体(政治構造)の不変さの証拠とされることもしばしばだった。

神武天皇が創始した王朝は、「神の代」の祖先たちの系譜を引き継いでいるとも信じられていた。そのため、日本の王朝は永遠であり、万世一系であると考えられていた。
中国

[5]詳細は「易姓革命」を参照

王朝が非常に古いという主張は、自国民だけでなく、国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に対して威信を示すためでもあった。中国側がこの主張に感銘を受けた例も記録されている。

新唐書』には日本の歴史も略述され、「神の代」に属す日本の支配者32人のうち最初と最後の2人と[注 4]、『日本書紀』などが掲げる「人の代」に属す歴代天皇58代(神武天皇から光孝天皇まで)も列挙されている[6]。楊億(ようおく)は『新唐書』の編纂に参加し、日本の学僧である「然が当時の中国皇帝にもたらした以下の情報について記録を残している。「王家はひとつだけで、64代引き続いておさめてきた(国王一姓相伝六四世)。行政・軍事の官職はすべて世襲である。[7][8]」当時の天皇は円融天皇で、皇統譜によれば64代目にあたる[注 5]

宋史』「日本伝」では、北宋の皇帝・太宗の反応を以下のように記述している[9]北宋の太宗(太宗は)この国王は一つの姓で継承され、臣下もみな官職を世襲にしていることを聞き、嘆息して宰相にいうには「これは島夷(とうい。島に住む異民族のこと)にすぎない。それなのに世祚(代々の位)は遐久(かきゅう、はるかにひさしい)であり、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに、古(いにしえ)の道である。」 ? 北宋の太宗

日本側でも、北畠親房の『神皇正統記』では以下のように論じている[10][11]北畠親房モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王。)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。 ? 北畠親房、『神皇正統記』
ヨーロッパ

[12]

16 - 17世紀ヨーロッパ人も、万世一系の皇統とその異例な古さという観念は知られていた。日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。

スペインのフィリピン臨時総督ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロは『ドン・ロドリゴ日本見聞録』に、日本人について以下のように記述している[13]。彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が君主制を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということである。日本がまことにユニークな点は、ほぼ二二六〇年のあいだ、同じ王家の血統を引く者一〇八世代にもわたってあとを継いできたことである。 ? ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロ、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』

当時の天皇は後水尾天皇で、皇統譜によれば108代目にあたる。

貿易商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン1615年日本から以下のように報告している[13]。彼らのもろもろの文書やきわめて古い書物は、最初の日本国王である神武天皇がその治世を始めたのは二二七〇年以上も昔だと明言している。 ? ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン、(日本からの報告)


エンゲルベルト・ケンペルは『日本誌』で以下のように説明している[14]エンゲルベルト・ケンペル“宗教的世襲皇帝”の王朝は、キリスト以前の六六〇年がその始まりである。…この年からキリスト紀元一六九三年にいたるあいだ、すべて同じ一族に属する一一四人の皇帝たちがあいついで日本の帝位についた。彼らは、日本人の国のもっとも神聖な創建者である「テンショウダイシン」(天照大神、あまてらすおおみかみ)の一族の最古の分枝であり、彼の最初に生まれた皇子の直系である等々のことを、きわめて誇りに思っている。 ? エンゲルベルト・ケンペル、『日本誌』

さらに、歴代天皇の名前と略伝を日本語文献のとおりに列記している。
江戸時代

[15]

江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、皇室の大変な古さと不変性を強調した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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