七草がゆ・七草粥(ななくさがゆ)・七種粥とは、人日の節句(毎年1月7日)の朝に食べられている日本の行事食(料理)である。 春の七草や餅などを具材とする塩味の粥で、その一年の無病息災を願って1月7日に食べられる[1]。正月の祝膳や祝酒で弱った胃を休める為とも言われる。 この行事は、平安時代には行われていたが、室町時代の汁物の原型ともされている。 七草がゆの由来については、一般に6世紀の中国古典『荊楚歳時記』に、七種菜の羹を正月七日に食べる風習が記されている点が指摘される。これに類似する風習は古い記録にみられ、『西京雑記』や『金匱録』七禽食方によれば、正月上辰日(月最初の辰日)に特定の植物を食べたり粉末にしたりする風習が各地で行われていた。『荊楚歳時記』の七種菜の羹を正月七日に食べる風習は、これらの遺風であったようである。日本の『御伽草子』七草草子で辰の刻に七草粥を煮るとされるのは、かつて上辰日に行われていた風習の名残らしい[2]。また、朝日新聞のコラム「天声人語」2023年1月7日掲載分「七草いまむかし」によると、江戸時代には七つの調理道具を用いて囃す「薺打ち」という行事があり、年の初めに豊作を願うのが由来だとされている[3]。 現在では、七草をセットした商品が、多くの八百屋など小売店にて販売されるほか、フリーズドライの七草や、お茶漬け用のふりかけ[4]として販売されている例もある[3]。また、日本食糧新聞によると、COVID-19の流行により年末年始を自宅で過ごす人が増えたため、七草茶漬けの需要が高まったとされている[5]。 なお、正月七日に七種の食材を食べて健康を願う風習は中国にも残っている[6]。 御伽草子の七草草子 すなわち、七草の由来とともに、ここでは親孝行の功徳を説いた話だったのである[8]。 以下は、関東地方の例である。 1月6日の夜、あらかじめ用意したセリ、ナズナ、ゴ(オ)ギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの「七草」をまな板の上に載せ、以下の歌を歌いながらしゃもじやお玉杓子、包丁の背などで叩いて細かくする。七草なずな 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬ先に ストトントン 明けて7日の朝に粥を炊き、叩いた七草と塩を入れて七草粥にする。そして朝食として食べる。 七草粥は新年の季語とされる。七種の節句とはこの七草がゆを食べる行事を言う。 七草粥は七草すべてが使用されるわけではなく、また地方によっても食材が異なる場合がある。 気候や降雪の関係で七草が摘めない東北地方では、「七草」を使用しない場合が多い。山形県の村山市周辺ではゴボウ、ニンジン、こんにゃく、ずいき、油揚げなどを入れた納豆汁、七草汁を1月7日の朝食として食べる。最上川流域では1月7日に新米の握り飯を12個作り、箕の上に乗せて柳の箸を刺して「おみ玉」として飾る。その後で握り飯を崩して煮込み、野菜、昆布、干し柿、栗を入れたものを「七草粥」と呼ぶ。また、青森県や秋田県では1月7日に行事を行う地域は少数である。だが1月16日の小正月には、細かく刻んだ根菜を大量に炊き込んだ精進料理「けの汁」を作って祝う。 気候的に七草が入手できる地帯でも七草ではなく、ありあわせの青菜、さらに根菜や油揚げなど大豆製品をも含めて「7種」取りそろえる場合や、九州南部では鶏肉を加え、南西諸島では正月の食材として作られる塩豚を具に用いるなど精進料理ではない地域もある。
概要
説話
毎年春のはじめに七種の草を食べること。
1月6日までに7種類の草の集めておくこと。次の時刻に柳で作った器に種を載せ、玉椿の枝で叩くこと。
酉の刻から芹
戌の刻から薺
亥の刻から御形
子の刻から田平子
丑の刻から仏座
寅の刻から菘
卯の刻から清白
辰の刻からこれらの種を合わせ、東から清水を汲んできて、これを煮て食べること。
一口で10歳、七口で70歳若返るので、ついには8000年生きることができよう。」大しうはこの教えを繰り返し暗唱すると、この日は正月であったのですぐに山を降りて7種類の草を集め、6日の夕方から教えの通り、不思議な心持ちで夜通し草を叩いた。朝になり、東から汲んだ水で炊いて両親に食べさせたところ、たちまち若返ったのはいうまでもない。これが世に伝わり、噂を聞いた当時の帝はこの親孝行に感動して位を譲った[7]。
詳細
地方での差異
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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