七月の主張
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ニコラエ・チャウシェスク

七月の主張(しちがつのしゅちょう、Tezele din iulie, テーゼレ・ディン・ユリエ)とは、ルーマニアの共産指導者、ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceau?escu)が、1971年7月6日に開催されたルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の場で行った演説の通称である。この演説の正式名称は、「Propuneri de m?suri pentru imbun?t??irea activit??ii politico-ideologice, de educare marxist-leninist? a membrilor de partid, a tuturor oamenilor muncii」(「党員ならびに全労働者のための、政治思想活動とマルクス・レーニン主義教育の改善に向けた措置案」)である[1]。この演説には、17の「提言」が書かれており、イデオロギー、政治、文化教育活動の分野において、党との積極的な協議を通じて普及していき、共産主義体制の出発点である「多国間で発展した社会主義社会を構築する」段階における最重要計画を示すものとなった[1]

チャウシェスクが行ったこの演説は、毛沢東主義者を思わせるもので[2][3][4]ルーマニア社会主義共和国における「小さな文化大革命」の始まりを示すものとなり[4][5][6]社会主義的現実主義の厳格な指針への回帰、文化的自主性や従おうとしない知識人に対するネオ・スターリニズム(Неосталинизм)に基づく攻勢や非難が始まった[7]。人文科学と社会科学においては、政治思想との厳格な一致が要求され、能力と審美は政治思想に、専門家は扇動者に取って代わられ、文化については、共産主義者による政治思想の大々的な宣伝活動の手段へと変わった(→共産プロパガンダ(英語版))[8]

チャウシェスクが発表したこの措置案は、中央委員会政治執行委員会の委員たちにより、満場一致で承認された[1]

1971年11月の初旬、ルーマニア共産党中央委員会総会にて、この演説の最終版が発表され、その題名は、「Expunere cu privire la programul PCR pentru imbun?t??irea activit??ii ideologice, ridicarea nivelului general al cunoa?terii ?i educa?ia socialist? a maselor, pentru a?ezarea rela?iilor din societatea noastr? pe baza principiilor eticii ?i echit??ii socialiste ?i comuniste」(「社会主義および共産主義における倫理と公平の原則に基づいて我々の社会におけるつながりを正常なものにするにあたり、大衆に向けた思想活動の改善、一般的な知識水準と社会主義教育の向上を目的とした、ルーマニア共産党中央委員会の計画に関する詳細な説明」)であった[2]
背景

1947年12月30日ルーマニア王国の君主・ミハイ一世が退位を宣言した。これに伴い、ルーマニア共産党が政権を掌握し、「ルーマニア人民共和国」(Republica Popular? Roman?)の樹立が宣言された[9]。ルーマニアの指導者となったゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)は、邪魔な存在となる同志たちを粛清したのち、党と国家に対する自身の支配力を強めた。ゲオルギウ=デジはヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)に忠実な人物であり、スターリンの思想や政策を積極的に受け入れた。しかし、1956年2月にニキータ・フルシチョフ(Ники?та Хрущёв)が行ったスターリン批判や、脱スターリン化(Десталинизация)という一連の行為に対し、動揺を見せるようになった。その後、ゲオルギウ=デジは反ソ連の立場を強めるようになり、1955年にフルシチョフがルーマニアを訪問した際には、ルーマニア国内に駐留しているソ連軍を撤退させるよう要求した[10]1950年代の終わりまでに、ソ連はルーマニアから最後の赤軍を撤退させた[9]

1965年3月19日、ゲオルギウ=デジが肺癌で亡くなったのち[11]3月22日ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceau?escu)がルーマニアの新たな指導者となった。1965年7月に開催されたルーマニア労働者党第9回党大会の席にて、チャウシェスクは政党名を「ルーマニア共産党」(Partidul Comunist Roman)に戻すことを提案し、可決された。前任者のゲオルギウ=デジは、1948年2月以来、「ルーマニア労働者党第一書記」の肩書を名乗っていたが、チャウシェスクはこの役職名を「ルーマニア共産党書記長」に戻した。1965年8月21日、チャウシェスクは新たな憲法の制定の採択を宣言し、国名を「ルーマニア人民共和国」(Republica Popular? Roman?)から「ルーマニア社会主義共和国」(Republica Socialist? Romania)に変更した[9]

ルーマニア共産党書記長に就任したころのチャウシェスクは、国内の報道の検閲を緩和した。ルーマニアにおける報道の自由は、ほかの共産国家に比べると緩やかであった。ルーマニア国民は、国内だけでなく外国による報道にも触れることが可能であった。ルーマニアへの出入りは比較的自由であり、共産党政府は住民の移住を妨害したりはしなかった。ルーマニア在住のユダヤ人は、イスラエルに向かう権利を得られた。芸術や文化における表現の様式は、党のイデオロギーに反しない限り、自由であった[12]1960年代初頭のルーマニアは緩やかな自由化を迎え[2][13][14]、1965年9月に開催されたルーマニア共産党第9回党大会を経て、1971年7月のチャウシェスクによる演説まで、この傾向は続いた[14][15]。ニキータ・スタネスク(ルーマニア語版)、アナ・ブランディアナ(Ana Blandiana)、ガブリエル・リーチャーノ(ルーマニア語版)、ニコラエ・マノレスク(ルーマニア語版)、アドリアン・ポウネスク(ルーマニア語版)といった詩人や作家が登場した[16]

1968年4月に開催されたルーマニア共産党中央委員会本会議にて、チャウシェスクは前任者のゲオルギウ=デジの名前を挙げたうえで公然と非難した。この本会議において、チャウシェスクは、1954年にゲオルギウ=デジの手で粛清・処刑された法務大臣、ルクレチウ・パトラシュカーヌ(英語版)の名誉回復を採択した[17][18][19]。パトラシュカーヌの粛清に関与していた内務大臣アレクサンドル・ドラギーチ(Alexandru Dr?ghici)はニコラエ・チャウシェスクと対立関係にあり、殺されたパトラシュカーヌの名誉回復が採択されるとともに、ドラギーチは党から駆逐された[20]。ドラギーチは、その年のうちに、ルーマニア共産党中央委員会政治局、ルーマニア大国民議会常任幹部会、閣僚評議会からも除名され、さらには将校の地位から予備役の兵卒に降格させられた。この本会議のあと、ルーマニアにおける芸術表現の幅が広がった。エウジェン・バルブ(ルーマニア語版)による1969年の小説『Principele』では、ドナウ・黒海運河の建設事業を推進したゲオルギウ=デジについて、遠回しに言及している。ルーマニア国内の強制収容所に収監されていた多くの政治犯たちが運河の建設に従事させられ、運河の完成に至るまでに、その多くが命を落とした。ドミートル・ラドゥ・ポペスク(ルーマニア語版)による1969年の小説『F』では、集団農場における不当な扱いについて描写され、アウグスティン・ブズラ(ルーマニア語版)による1970年の小説『Absen?ii』では、若い医師の心の危機の描写を通じて社会批判を行っている[18]。アレクサンドル・イーヴァースィオク(ルーマニア語版)とパウル・ゴーマ(ルーマニア語版)は、1956年にブクレシュティで起こった反共主義の学生運動(ルーマニア語版)に参加し、投獄されていた。


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