七尾城
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この項目では、能登国(石川県七尾市)の七尾城について説明しています。石見国(島根県益田市)の七尾城については「七尾城 (石見国)」を、伯耆国(鳥取県米子市)の七尾城については「七尾城 (伯耆国)」をご覧ください。

logo七尾城
石川県
七尾城址(桜馬場石垣
別名松尾城、末尾城
城郭構造連郭式山城
天守構造なし
築城主畠山満慶
築城年1428年 - 1429年正長年間)
主な改修者畠山義綱上杉謙信
主な城主畠山氏鰺坂長実(上杉氏家臣)、前田氏
廃城年1589年(天正17年)
遺構郭、石垣土塁堀切虎口
指定文化財国の史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度0分32.53秒 東経136度59分2.1秒 / 北緯37.0090361度 東経136.983917度 / 37.0090361; 136.983917座標: 北緯37度0分32.53秒 東経136度59分2.1秒 / 北緯37.0090361度 東経136.983917度 / 37.0090361; 136.983917
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七尾城跡入口

七尾城(ななおじょう)は、能登国鹿島郡七尾(現・石川県七尾市古城町)にあった日本の城室町時代から戦国時代にかけての山城跡で、国の史跡に指定されている[1]能登畠山氏によって拡張され、最終的には南北2.5キロメートル、東西1キロメートルにも及ぶ巨大な城となった[2]
概要

七尾湾が一望できる、石動山系北端の標高300mほどの尾根上(通称「城山」)にあり、その尾根から枝分かれする行く筋もの大小の尾根にも無数のを配置した大規模な山城である。「七尾」という名は「七つの尾根」(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)から由来されるという。別名として「松尾城」あるいは「末尾城」と記した資料も残る。これは城が七つの尾根のうち松尾に築かれたためである。いずれも尾根づたいに配された曲輪を連想させる。

尾根に連なる畠山氏とその重臣の遊佐氏長氏の屋敷を中心とする曲輪群に加えて、斜面にはその家臣の屋敷が、には城下町があり、城下町は惣構えで守られていた[2]。城郭考古学者の千田嘉博は、七尾城下町遺跡の規模と保存状況の良さは越前朝倉氏一乗谷遺跡(福井県)に匹敵すると評価している[2]
歴史・沿革
室町時代・安土桃山時代

室町幕府三管領家の一角を占める畠山氏のうち、七尾畠山氏の初代当主で能登国守護畠山満慶正長年間(1428年?1429年)頃にこの地に築いたと思われる。当時の七尾城は砦程度の規模と見られ、行政府である守護所も府中(現在の七尾市街地の府中町)に置かれていた。次第に拡張、増強され、以後約150年間にわたって領国支配の本拠となり、第五代当主である畠山慶致の頃には守護所も府中(七尾城山の麓)から七尾城へと移されたという。その後、畠山義続畠山義綱の頃に能登では戦乱が続いたために増築され、最大の縄張りとなったと言われる。山麓に城下町「千門万戸」が一余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称されたと記録に残っている。日本五大山城の一つに数えられるほど強固な城であった。

1576年天正4年)に能登国に侵攻した上杉謙信に包囲され、攻防戦が始まった[2]七尾城の戦い)。謙信は、かつて人質(養子扱い)として差し出されていた上条政繁畠山義春[注釈 1]を新たな畠山氏の当主として擁立し、かねてから乱れている能登の治安を回復するという大義名分の基に能登攻めを開始[注釈 2]。七尾城は一年にわたって持ちこたえた。しかし、重臣同士の対立の末に擁立されていた若年の当主畠山春王丸長続連遊佐続光温井景隆らの対立を収めることができず七尾城は孤立した。1577年(天正5年)9月15日、遊佐続光の内応により上杉軍が侵入し、徹底抗戦を主張した長氏一族は殺害された[2]。謙信は9月26日、七尾城の改修を始め、自らも本丸に上って、七尾湾を望む絶景の素晴らしさを家臣への書状に記した[2]

また攻城戦で謙信が詠んだとされる漢詩『九月十三夜陣中作』は非常に有名であるが、実際にはこの詩は謙信作ではないといわれている。

謙信と対立する織田信長勢による七尾城救援は間に合わなかったが、直後に謙信が急死すると織田勢は北陸で反攻に転じた。越中国(現在の富山県)と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、のちに織田方によって領され、城代として菅屋長頼が入って政務にあたった後に前田利家が入った。既に山城の時代ではなく、拠点を小丸山城に移したため、しばらく子の前田利政が城主となっていたが、豊臣政権下の1589年(天正17年)に廃城となった。
現代

2006年平成18年)4月6日、日本100名城(34番)に選定された。日本五大山城の一つとされることもある[3]2024年令和6年)1月1日に発生した令和6年能登半島地震により、本丸西側、二の丸東側、桜馬場の石垣が一部崩落する被害が発生した[4]
遺構古道調度丸

前田利家が能登に在国したおり小丸山城に移ったため、現在の七尾市街地も小丸山付近にある。従って開発や災害などによる遺構の損失を逃れ、遺構が数多く残っている。低石垣を五段に積み重ねた本丸の石垣を中心に、各曲輪の石垣のほとんどが現存する。そのため、山城の歴史上重要な遺跡として、1934年昭和9年)に、国の史跡に指定されている。このような遺跡は他には若狭後瀬山城しかない。

2005年平成17年)には地中レーダー探査による七尾城の遺構調査が行われ、そこで柱跡などの遺構が確認された。城門は、市内の西光寺に移築されたとされる。

七尾市教育委員会などが城山の樹木を伐開・剪定して、七尾市街や七尾湾、能登島能登半島などの眺望が楽しめるようにしている[2]
曲輪

本丸 - 戦国期の山城に多い「野面積み」石垣が残る。

二の丸

三の丸

西の丸

調度丸 - 多数の出土品が発見(「調度丸跡」説明板)。

長屋敷

遊佐屋敷 - 最も本丸に近い重臣屋敷(「遊佐屋敷跡」案内板)。

温井屋敷

寺屋敷

桜の馬場 - 石垣が五段に組まれ、七尾城でも最大規模(「桜馬場跡」説明板)。

復元建造物・周辺施設など

本丸跡から能登半島と日本海がよく展望できる。畠山氏と上杉氏の家紋をあしらった「七尾城まつり」が建つ時がある。


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