中国の税制である地丁銀制(ちていぎんせい)については「地丁銀制」をご覧ください。
丁銀(ちょうぎん)とは、日本国内において主に商取引用として室町時代後期から明治維新まで流通した銀貨である。当時は単に銀と呼ばれ、例えば品位を下げた元禄丁銀は「元字銀」などと称呼された。丁銀という名称は『 ⇒金銀図録』の記述によれば棒状の銀塊の意味である.mw-parser-output .jis2004font{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","源ノ角ゴシック JP","Source Han Sans Normal","Source Han Sans","NotoSansJP-DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ ProN W3","ヒラギノ角ゴ ProN","Hiragino Kaku Gothic ProN","メイリオ",Meiryo,"新ゴ Pr6N R","A-OTF 新ゴ Pr6N R","小塚ゴシック Pr6N M","IPAexゴシック","Takaoゴシック","XANO明朝U32","XANO明朝","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研中丸ゴシック2004ARIB","和田研中丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004ARIB","和田研細丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシックProN",YOzFont04,"IPA Pゴシック","Yu Gothic UI","Meiryo UI","MS Pゴシック";font-feature-settings:"jp04"1}?銀(ちょうぎん)が挺銀(ちょうぎん)を経て変化したものとされる[1][2]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目に含まれる文字「?」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字が含まれています(詳細)。
概要慶長丁銀
形状は、ナマコ形と呼ばれるやや不揃いな棒状の銀塊で、量目(質量)は不定だがおおよそ43匁[3](約160.4グラム)前後で実際には三十何匁から四十何匁辺り(120-180g程度)が多かった[4][注釈 1]。額面は記載されておらず、量目によって貨幣価値が決まる秤量貨幣である[3]。表面には「寳」および「大黒」、「常是」などの極印が打たれ、また慶長銀と異なり銀品位の劣る丁銀には「元・宝・永・文・保・政」といった年代印が打たれ区別された。二ツ宝銀・三ツ宝銀・四ツ宝銀は「宝」字極印の数および書体で区別され、元文銀と文政銀は「文」字の書体で区別された。ただし、宝永期は大黒常是が御役召放とされたため、「常是」の極印は打たれていない[5][6][7][8]。
金(小判)および銭と共に三貨制度の一角を担い、当時は銀と呼ばれていた。江戸時代には、主に大坂を中心とした西日本および北陸、東北と広域に亘って流通した。 額面は天秤による量目の実測値で、商取引において銀何貫、銀何匁と表記される銀目取引の通貨単位であった。また賞賜目的には43匁を銀一枚とする単位が用いられ、これが丁銀の量目の目安とされた[9]。なお、当時用いられた分銅の質量単位は「両」であったが、小判の通貨単位との混同を避けるため「両」は用いられず「匁」が銀の通貨単位であった。一方中国では、当時秤量銀貨(銀錠)の額面単位に「両(テール
秤量貨幣
丁銀は額面の記載されていない秤量貨幣で、本来は使用のごとに量目を量る必要があるが、実際に取引の度に秤量して用いたのは豆板銀(小玉銀)だけであり、丁銀はこれに小玉銀を掛け足して五百目包(1865g)など包銀の形で用いられた[10]。これは、丁銀と同品位の少額貨幣である豆板銀を合わせて一定の量目(恩賞および献上用には銀一枚:43匁、商取引用には五百目など)にし、紙に包んで封印したものである。銀数十匁にもなる丁銀は日常生活には高額過ぎ、例えば四十目(149.2g)の慶長丁銀であれば米2?3石を入手する購買力を持っており、財布に入れて使用するような性質のものではなかった。