一門_(相撲)
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大相撲では、相撲部屋の系統ごとに一門(いちもん)という人脈的派閥が存在する。
解説

相撲は古来の伝統文化・芸能であり、疑似家族・疑似一族による成員から成り立つことが一般的である東洋の他の伝統文化・芸能と同様に、従事者(力士年寄行司呼出床山)と相撲部屋はいずれかの一門に属しているのが原則である。現行制度では一門に属することが義務付けられているが、かつては無所属でも許されたことがあった。

かつて、一門は実体として存在していた。本場所では優勝決定戦等を除き一門系統別総当たり制であり、一門内の対戦を禁じていた。巡業も一門を単位として行われるのが一般的であった(歌舞伎の劇団制と同様)。一門を超えて力士が交流するということもなく、またできるだけ他の一門に情報を明かさないようにしていた(江戸期までの囲碁将棋と同様)。その性質上、昭和戦前まで一門は巡業組合という意味合いで「組合」と呼ばれていた[1]。当時は月給制が存在せず、力士や親方の経済基盤の多くは祝儀と巡業により成り立っていた。詳細は「系統別総当たり制#系統別総当たり第2期」および「大相撲#取組の歴史」を参照

1957年(昭和32年)3月2日、衆議院議員辻原弘市日本社会党)が衆議院予算委員会において、民法上の認可法人である財団法人大日本相撲協会(当時の名称)の目的がいわゆる君臣の関係を基とした武士道の精神の涵養であること、力士の(祝儀収入を除いた)収入の低さ、協会理事の利益相反行為(利権を持つ相撲茶屋を理事が実質経営)などの問題について質問を行った[2]。続く4月3日の衆議院文教委員会では協会理事の武蔵川らが参考人として出席し、指摘された諸問題について答弁を行った[3]。これを機に大日本相撲協会は一連の改革を行う。改革の一環として財団法人日本相撲協会と改称し、巡業は日本相撲協会そのもので廻るようになり、一門を単位とする巡業はなくなった。「大相撲#昭和」および「日本相撲協会#沿革」も参照

本場所は1965年(昭和40年)1月場所から部屋別総当たり制に改正された。しかし、力は衰えてはいるものの、公益財団法人に改組された現在でも日本相撲協会の人事、とりわけ理事の選出は一門の枠組みで決定されている。また一部の年寄株行司の名跡にも襲名制限がある。「大相撲#部屋別総当たり制」および「取組#同部屋・4親等以内の取組回避」も参照

協会からは毎年、各一門へ助成金が支給され、さらに一門の責任者が所属する各部屋に分配している。一門に所属していない部屋には当然助成金は支給されない。

役員以外の年寄衆で構成される年寄会には、各一門より会長もしくは副会長を選出している。

ある一門に所属していた親方が、別の一門に所属を変更して部屋を開いた場合は外様の扱いになる。現在は出羽海一門を破門された高砂一門の九重部屋が該当する。

これまで後述のようにいずれの一門にも属さない「無所属」などの活動も見られたが、2018年(平成30年)7月の理事会において、同年9月27日の理事会までにすべての年寄が存在する5つの一門のいずれかに属することが義務付けられた[4]。前月に一門を解散した貴乃花親方を追放に追い込むために作られたルールであるとして批判が集まった[5]
一門の一覧

一門名部屋数所属親方数総帥選出理事
(太字は理事長)現役の筆頭力士
(最高位・太字は現在の役)備考
出羽海一門153711代出羽海
2・小城ノ花)13代境川
小結両国
11代春日野
関脇栃乃和歌
11代出羽海
(前2・小城ノ花)大関・御嶽海
出羽海部屋
大関・豊昇龍
立浪部屋)3系統の部屋の集合体。
二所ノ関一門152813代二所ノ関
横綱稀勢の里)12代芝田山
(横綱・大乃国
13代佐渡ヶ嶽
(関脇・琴ノ若
9代高田川
(関脇・安芸乃島)大関・
田子ノ浦部屋
大関・貴景勝
常盤山部屋
大関・琴櫻
佐渡ヶ嶽部屋)戦後全ての世代で看板力士を輩出している。
時津風一門51617代時津風
(前1・土佐豊)12代伊勢ノ海
(前3・北勝鬨
13代勝ノ浦
(前2・起利錦)大関・正代
時津風部屋
大関・霧島
音羽山部屋)1945年、立浪一門より独立した双葉山により結成。
4つの系譜の部屋による連合体。
高砂一門4118代高砂
(関脇・朝赤龍)8代八角


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