一蓮寺
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一蓮寺

本堂
所在地甲府市太田町5-16
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分7.2秒 東経138度34分17.3秒 / 北緯35.652000度 東経138.571472度 / 35.652000; 138.571472座標: 北緯35度39分7.2秒 東経138度34分17.3秒 / 北緯35.652000度 東経138.571472度 / 35.652000; 138.571472
山号稲久山
宗旨時宗
宗派単立
本尊阿弥陀如来
札所等甲斐百八霊場53番
文化財絹本著色釈迦三尊十八羅漢像 3幅(重要文化財)ほか
公式サイト ⇒一蓮寺
法人番号7090005000708
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一蓮寺(いちれんじ)は、山梨県甲府市太田町に所在する寺院時宗系寺院(単立)で、山号は稲久山。一条道場。
立地と歴史的景観

山梨県・甲府盆地の中央部に位置する。甲府市街地南部に位置し、中心市街地から南に至る遊亀通り沿いに所在する。

現在地は甲府市太田町であるが、旧地は現在の甲府城跡所在する甲府市中央二丁目にあたり、一条小山と呼ばれる独立丘陵上に立地していた。一条小山は愛宕山[1]と一体の丘陵であったが、荒川・相川など河川による侵食で独立丘陵化した地形であると考えられている。現在の甲府市中心市街地からは古墳時代の縄文時代から古墳時代の遺物も見られるものの、洪水被害を受けやすい盆地底部にあたり、定住は遅れていたと考えられている。
歴史
一蓮寺の創建

平安時代後期には常陸国から源義清清光子孫が盆地各地に土着し甲斐源氏の勢力として広まり、盆地中央から北西部は甲斐源氏の惣領である武田信義とその子孫である一条忠頼板垣兼信武田有義らが土着した。『吾妻鏡』に拠れば信義ら甲斐源氏の一族は治承・寿永の乱において活躍し源頼朝鎌倉幕府創設に参画するが、やがて頼朝の粛清を受け衰微する。

甲斐源氏の一族は源氏氏神である八幡信仰をはじめ仏教を信仰し、鎌倉期には時宗や日蓮宗禅宗など新仏教にも帰依しており、山梨県内には願成寺や大聖寺、放光寺法善寺など甲斐源氏一族に関係する諸寺院や諸仏が分布している。

一蓮寺の前身は一条忠頼の居館で、忠頼は源頼朝より謀殺されたと言われ、一蓮寺は忠頼夫人が菩提を弔うために建立された尼寺であったという(『甲斐国志』)。
中世の一蓮寺

鎌倉時代に一遍が創始した時宗は他阿真教により甲斐国においても教化され、他阿の廻国途上に一蓮寺をはじめ称願寺笛吹市御坂町)、西念寺富士吉田市)、長泉寺北杜市須玉町)などの地域的拠点寺院が成立する。武田信義の子で甲斐守護の信光子孫の一条時信は時宗二世の他阿真教に帰依し、時信弟の宗信(法阿弥陀仏朔日)は真教の弟子となり、正和元年(1312年)に時宗道場に改宗され一蓮寺が創建されたという(『甲斐国志』)。鎌倉・室町期には一蓮寺を中心とする門前町が形成された[2]

時宗の僧は戦場における死者の回向や軍使、死体処理など陣僧としての役割を果たし、『太平記』に拠れば南北朝期の観応の擾乱においては、時宗に帰依していたとされる高師冬が須沢城(南アルプス市大嵐)において上杉憲顕と戦った際には一蓮寺の陣僧が随行していたという。

戦国期には守護武田氏による国内統一が進み、武田信虎期の永正16年(1519年)8月には川田館笛吹市石和町)から甲府に守護所が移転され、躑躅ヶ崎館(甲府市武田)を本拠とする城下町が形成された。一蓮寺が所在する一条小山は武田城下町の南端にあたり、武田氏は大永4年(1524年)6月16日に城下町周縁の要害山城や湯村山城とともに一条小山にも府中防備のためのが築かれ、一蓮寺は一条小山の山麓に移転された(『高白斎記』)。

武田氏による城下町整備により、一蓮寺や城下東部の甲斐善光寺(甲府市善光寺)の門前町は武田城下町に内包された。晴信(信玄)期には一蓮寺において、京都から下向した公家を招いての和歌会も行われている。
近世の一蓮寺

近世には武田氏の滅亡後、甲斐を統治した徳川氏や豊臣系大名により一条小山に甲府城が築城され、一蓮寺は現在の甲府市太田町に移転する。甲府城跡の発掘調査においては墓石石臼など寺院に関係すると見られる遺物も出土している。

近世・江戸時代には甲府城を中心とした新府中が形成され、甲府城東には三ノ堀で囲郭された町人地(下府中)が形成された。下府中南には一蓮寺や光沢寺、日蓮宗寺院の信立寺などの寺院が立ち並ぶ寺内町で、近接する緑町には江戸後期には芝居小屋である亀屋座が設置され、甲府城下の周縁部に位置しており、嘉永7年(1854年)に刊行された甲府城下の商工名鑑である『甲府買物独案内』冒頭に掲載されている「甲府繁盛之図」においては遠景に一蓮寺の本堂が描かれている。

近世には本山である清浄光寺の末寺として甲斐における拠点寺院となり、末寺20、塔頭20を抱えていた。近世には一蓮寺住職が入院する際には住吉明神(甲府市住吉)の神主が案内を務める古例があったという[3]。文化年間には本堂が焼失する。
近現代の一蓮寺

現在の一蓮寺に隣接する遊亀公園1874年明治7年)に旧境内地が山梨県に移管されて整備された公園で、園内には一蓮寺の摂社である正木稲荷神社などが存在し、動物園(現在の甲府市遊亀公園附属動物園)も開園した。1877年(明治9年)11月に一蓮寺において山梨県会が開催され、県令の藤村紫朗や戸区長らの議員が集い、本堂において議事が行われた。

1945年昭和20年)7月6日 - 7月7日には甲府空襲により甲府市街は焼失し、本堂もこのときに焼失して、戦後に再建されている。『一蓮寺過去帳』や「釈迦如来十八羅漢像」などの寺宝をはじめ一蓮寺文書などを所蔵している。

1981年(昭和56年)に甲府市伊勢において子院である廃般舟院跡地から南北朝から近世期の五輪塔70基、宝篋印塔6塔などの石造物が出土し(廃般舟院跡地出土墓石群)、現在は一蓮寺境内に移転されている。
稲積神社正の木祭りで売られる苗木(2011年5月4日撮影)

一蓮寺の南には稲積神社(庄城稲荷)が所在し、本来は一蓮寺や般舟院とともに一条小山に所在し、一蓮寺の移転に伴い現在地に遷った。稲積神社は甲斐源氏の氏神として信仰されており、1868年(明治元年)の神仏分離に伴い正木稲荷明神として独立した。毎年5月には例大祭である正ノ木祭が開催されている。
一蓮寺を描いた絵画

江戸後期に浮世絵師歌川国芳が正木稲荷を背景に大判三昧続きの「甲州一蓮寺地内 正木稲荷之略図」を描いている。山梨県内に所在する伝本では「甲州文庫」本(山梨県立博物館所蔵)ほか二点の個人所蔵本があり、昭和戦前期には野口二郎、戦後には上野晴朗、石川博らが紹介している。個人所蔵本の一種では署名は「一勇斎国芳」、出版は地本問屋の和泉屋市兵衛、「村松」「吉村」の改印(名主双印)があり、発行時期は弘化4年(1848年)から嘉永5年(1851年)の間に推定されている[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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