一色義道
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凡例一色 義道
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕不明
死没天正7年(1579年)
別名義通、義辰
官位式部大輔、左京大夫
幕府室町幕府丹後守護
主君足利義輝→義栄→義昭→織田信長
氏族一色氏(丹後一色家)
父母父:一色義幸
兄弟義道、昭辰、義清
子満信
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一色 義道(いっしき よしみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。丹後国守護。加佐郡建部山城主。軍記物語の『一色軍記』にしか登場せず、一次史料では確認できないため架空の人物である可能性がある[1]。
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丹後国の戦国大名・一色義幸の子として誕生した。
一色氏は室町幕府の四職に数えられる名家であったが、戦国時代には没落の一途をたどり、丹後守護職の名分も宿敵である若狭武田氏に奪われ、長らく続いたかつての守護家の権威をもって丹後の実効支配を続ける状態にあった。
永禄元年(1558年)、父・義幸の隠居により家督を継承し、加佐郡の八田守護所及び建部山城に入り、実弟の義清を吉原城に配して丹後奥三郡を治めさせ、昭辰(あきたつ)には「辰」の字を与え、同じく15代将軍・足利義昭より偏諱を受けその奉公衆として将軍家に近侍させた。
義道は弟・昭辰を介して毛利輝元とも親交を深め、戦国武将としての地位を確立した。また、越前一向一揆(年代合わず、朝倉攻めか?)討伐戦に参加するなど織田信長とも親交を深め、信長が擁立した足利義昭から丹後一国を正式に安堵される。しかし、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちで追われた延暦寺の僧を匿うなど信長と対立し、天正6年(1578年)には織田家の武将・明智光秀と長岡藤孝による丹後国への侵攻を招いた。
翌天正7年(1579年)、丹後国人の相次ぐ織田方への寝返りを招き、丹後守護所の詰城である建部山城も落城する。義道は但馬国の山名氏への亡命を企てて途中、丹後の中山城に身を寄せたが、城主・沼田幸兵衛は織田方に内応したため行き場を失って自害した(細川家譜には丹後平定戦の最中に病死したとある)。
自害の前に子の満信に家督を譲ったとされる。
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義道は領内に悪政を敷いたため人望に乏しく、そのために国人の離反を防げなかったとされている。
脚注^ 清水敏之「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」戦国史研究会 編『戦国史研究』(82)p1-16(戦国史研究会、2021年)
関連項目
畿内・近国の戦国時代
表
話
編
歴
一色氏/丹後一色家当主
公深
頼行
範氏
直氏
範光
詮範
満範
義貫
教親
義直
義春
義秀
義有
義清
義幸
義道
義定
義清 | 断絶
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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