板垣退助先生顕彰会一般社団法人板垣退助先生顕彰会
Itagaki Taisuke Honoring Association
土佐桐(もと土佐藩祖・山内一豊が豊臣秀吉から拝領した家紋で、山内家の替紋となり、江戸時代を通して他家の使用を禁じられた独占紋。例外として戊辰戦争の戦功により、特別に板垣退助が拝領した。退助はこの紋を非常に気に入り、以後板垣家の家紋となる。退助の著書の表紙などにも使用された事から明治維新百年・板垣退助五十回忌の年、板垣退助先生顕彰会の設立に際し同会最高顧問・山内豊秋の許可を得て同会の紋として使用されている[1])
同法人本部所在地ビル(外観)
略称板垣会(板垣顕彰会[2])
設立1968年(昭和43年)
設立者佐藤栄作
設立地 日本・東京都千代田区
種類一般社団法人
法人番号9120005019189
板垣退助先生顕彰会(いたがきたいすけせんせいけんしょうかい)は 、1968年(昭和43年)自由民主党総裁・佐藤栄作の意を受けて、板垣退助を顕彰する目的で東京都千代田区の東京高知県事務所において設立された文化学術団体[3]。現在は岡功太郎を理事長として大阪府大阪市に本部を置く、非営利活動型の一般社団法人で、現代維新を実現する為の草莽崛起を呼びかけている[4][5]。 戦後55年体制により、「自由党」と「日本民主党」が合併し「自由民主党」に名称変更したが、佐藤栄作はこの「自民党」こそが板垣退助が創設した愛国公党ならびに自由党の正統な後継組織であり、民撰議院設立の建白より連なる日本最古の政治政党であることを誇りに思っていた。しかし、同時に「自由党」が「自民党」と呼称変更したことにより、年月を経るごとに次第に板垣退助との関係が忘れられてしまうのではないかとの不安を抱いていた[5]。 同じ頃、高知県選出の自民党参議院議員・寺尾豊は、高知県に本部を置く板垣退助を顕彰する団体・財団法人板垣会の会長を兼任し、毎年、7月16日の板垣退助の命日に、板垣の生誕地址の建つ寺院・高野寺で法要を営んできたが、「五十回忌こそは実際に板垣退助の遺体が埋葬されている、東京品川で挙行したい」と考えていた。また同時に、その時は「高知県民たちだけではなく、中央を捲き込んで、板垣退助にゆかりある方々を御来賓としてお招きし盛大に挙行したい」と考えていた[5]。 折しも「板垣退助薨去五十回忌」の年である昭和43年(1968年)は、同時に「明治百年」を迎える年となるため、全国各地で明治維新を回顧する催しが行われており、佐藤栄作と寺尾豊の思いが一致した結果、「板垣退助薨去五十回忌」記念事業を推進するために、東京を拠点とする「板垣退助先生顕彰会」が設立されることになった[3]。 設立にあたっては佐藤栄作を名誉総裁、福田赳夫を副名誉総裁、高知県知事の溝渕増巳を名誉会長とし、旧土佐藩主末裔・山内豊秋を最高顧問、財団法人板垣会の会長でもあった参議院議員・寺尾豊が「板垣退助先生顕彰会」の会長を兼任、板垣退助親族や自由民主党議員、旧土佐藩家臣末裔、自由民権運動関係者、東京角力協会、都心部在住の高知県出身者、無雙直傳英信流居合関係者、学術研究者などが名を連ねた[3]。 高知県の財団法人板垣会の会長・寺尾豊が、同団体の会長も兼任したことから、設立当初は「板垣退助先生顕彰会」と両方に所属している会員が複数おり、これに日光東照宮を中心とする日光板垣会、岐阜公園を活動拠点とする岐阜板垣会、奥多摩・青梅市を中心とする青梅板垣会の会員らが呼び掛けに応じて加わり、東京を中心とする全国組織として結成された[5]。(当時の略称は「東京板垣会」) 以下『板垣退助先生顕彰会発起人名簿』による[5]。
設立
創立発起人
名誉総裁 自由民主党総裁・佐藤榮作
名誉副総裁 同党幹事長・福田赳夫
名誉会長 高知県知事・溝淵増巳
顧 問 土佐藩主山内家第18代当主・山内豊秋、浜口雄彦(高知県人会会長[6])、渡辺武次郎(三菱地所株式会社社長)、時津風定次(日本相撲協会理事長)、平野三郎(岐阜県知事)、松尾吾作(岐阜市長)、石川要三(青梅市長)、佐々木耕郎(日光市長)、宇都宮徳馬(衆議院議員)、塩見俊二(自治・厚生大臣、参議院議員)、仮谷忠男(衆議院議員)、田村良平(衆議院議員)、和田耕作(衆議院議員)、岡村文四郎(参議院議員)、浜田幸雄(前衆議院議員)、大西正男(前衆議院議員、郵政大臣)、原淳一郎(元衆議院議員、高知放送取締役[7])、山崎斉(前衆議院議員)、入交太蔵(元参議院議員)、泉清利(高知県会議会議員)、西山利平(高知県商工会議所会頭)、杉本重蔵(東京都品川区長)、千葉小二郎(東京都品川区議会議員[8]、有光次郎(元文部事務次官[9])、西山茂幹(東武ビル株式会社社長・弁護士)、前野直定(四国銀行頭取)、福田義郎(高知新聞社社長)