一歩前進、二歩後退
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1904年版の表紙

『一歩前進、二歩後退』(ロシア語: Шаг вперёд, два шага назад)は、1904年のウラジーミル・レーニンの著作。ロシア社会民主労働党の第二回党大会で起こった多数派(のちのボリシェヴィキ)と少数派(のちのメンシェヴィキ)の分裂について、多数派の観点から分析し、少数派を批判した。
背景

1900年にレーニンマルトフプレハーノフらによって創刊された新聞『イスクラ』は、ロシアの社会民主主義運動をリードする地位を確立し、1903年にロシア社会民主労働党第二回大会を開くことができた。43名の代議員が持つ議決権51票のうち、イスクラ派は33票を占めていた[1]

ところが、大会において党員資格に関する規約第一条が審議された際、党組織への参加を条件とするレーニンの案と条件としないマルトフの案が対立した。マルトフの案が採択された。イスクラ派はレーニン派とマルトフ派に分かれ、議事の合間に別々に会合を持つようになった。このとき、プレハーノフはレーニン側についた。

議事が『イスクラ』編集局の選挙まで進むと、レーニン派はそれまでの6名の編集局員(レーニン、マルトフ、プレハーノフ、ポトレソフ(英語版)、アクセリロードザスーリッチ)をそのまま候補とするのではなく、レーニン、マルトフ、プレハーノフだけを候補とした。レーニンとプレハーノフが『イスクラ』編集局を支配しようとするものだった。この案は可決されたが、マルトフは激しく反発し、就任を拒否した。

このときのレーニン派が大会後にボリシェヴィキ、マルトフ派がメンシェヴィキとなり、党は分裂状態となった。大会後にプレハーノフもメンシェヴィキ側に移ったため、レーニンは『イスクラ』編集局から辞任せざるをえなくなった。プレハーノフはレーニンを除く旧編集局員を補充した。『イスクラ』はメンシェヴィキの機関紙に変わり、レーニンに対する激しい批判が展開された。

そこでレーニンが反撃のために執筆したのが『一歩前進、二歩後退』である。
概要

レーニンは本書が解明しようとする基本的な問題をまえがきの中で二つ挙げる。「多数派」と「少数派」への分裂の政治的意義、および、組織問題について新『イスクラ』(少数派が支配する『イスクラ』)が取っている立場の原則的意義である。そして、第一の問題に答えるためには党大会の議事録の分析、第二の問題に答えるためには新『イスクラ』の原則的内容の分析が必要だとする。その結論は「『多数派』はわが党の革命的翼であり、『少数派』はその日和見主義的翼であるということ、げんざいこの両翼を分けへだてている意見の相違は、主として、綱領の問題や戦術上の問題ではなくてたんに組織上の問題に帰着するということ、新『イスクラ』が自分の立場をふかめようとすればするほど、またこの立場が自主補充をめぐる泥仕合からきよめられればきよめられるほど、ますますはっきりと新『イスクラ』のなかに現れてくる新しい見解の体系は、組織問題における日和見主義である、ということである」[2]

大会代議員は4つのグループに分かれていた。(1) イスクラ多数派(24票)、(2) イスクラ少数派(9票)、(3) 「中間派」(10票)、(4) 反イスクラ派(8票)。大会の前半では、イスクラ多数派とイスクラ少数派は結束して行動し、反イスクラ派を圧倒した。しかし党員資格に関する規約第一条の採決では、イスクラ派が多数派と少数派に分裂し、「中間派」と反イスクラ派がイスクラ少数派を支持したため、イスクラ多数派は敗れた。その後、反イスクラ派のうち7名(7票)が大会から脱退したため、イスクラ多数派は中央諸機関の選挙で勝利することができた[3]

マルトフが提案し、採択された党規約第一条は、次のとおりだった。「党の綱領を承認し、物質的手段によって党を支持し、党組織の一つの指導のもとに党に規則的な個人的協力を行うものは、すべてロシア社会民主労働党の党員とみなされる」[4]。党組織への参加を条件としないこの定式は、党組織ではない組織に属する労働者や単なるストライキ参加者をも党員と見なすものになっている[5]

イスクラ多数派は、中央委員会と中央機関紙編集局にそれぞれ3名を選出する案を提出した。その意図は「(1)編集局の刷新、(2)党機関には不適当な古いサークル根性の若干の特徴を編集局からとりのぞくこと、最後に(3)文筆家からなる合議機関の『神政的』特徴をとりのぞくこと(三人組を拡大する問題の解決に、すぐれた実践家を参加させることによってとりのぞくこと)」[6]だった。イスクラ少数派はこの案に対して実務的な論拠をもって反論するのではなく旧編集局員に対する侮辱だと抗議する道を選んだ。これは「俗物根性」であり、その結果として起こったのは「泥仕合」であった。選挙にさきだってわが大会は、つぎの問題を解決しなければならなかった。すなわち、中央機関紙と中央委員会との票数の三分の一を、党の多数派にあたえるべきか、それとも党の少数派にあたえるべきか? という問題である。六人組と同志マルトフの候補者名簿とは、われわれに三分の一をあたえ、彼の味方に三分の二をあたえることを意味していた。中央機関紙の三人組とわれわれの名簿とは、われわれに三分の二をあたえ、同志マルトフの味方に三分の一をあたえることを意味していた。同志マルトフは、われわれとの協定に応ずること、あるいは譲歩することを拒否し、大会で一戦をまじえようと手紙でわれわれにいどんできた。ところが、大会で敗北をなめると、彼は泣きだし、「戒厳状態」についての苦情を言いはじめたのである! さあ、これが泥仕合でないだろうか?[7]

大会後、プレハーノフは、『イスクラ』の旧編集局員を再び編集局に補充することで少数派に譲歩し、多数派と少数派を和解させようとした。その結果は新しい『イスクラ』による多数派に対する激しい攻撃だった。和解の試みは失敗に終わった。

その後、新『イスクラ』の原則的な立場がアクセリロードの論文に現れた。社会民主党内にプロレタリア的傾向と急進的インテリゲンツィア的傾向の対立があることを確認したうえで、後者の「ジャコバン主義」を批判している。しかし、党大会においてイスクラ派はまさにジャコバン主義者として反イスクラ派と争った。「自分の階級的利害を自覚したプロレタリアートの組織と切りはなせないようにむすびついているジャコバン主義者、これこそ革命的社会民主主義者である。」[8]

新『イスクラ』は「官僚主義」に反対している。これは実質的には自治主義の擁護であり、日和見主義の組織原則の擁護である。民主主義対官僚主義、これはすなわち自治主義対中央集権主義であり、社会民主党の日和見主義者の組織原則に対比しての革命的社会民主主義の組織原則である。前者は下から上へすすもうとつとめ、したがってできればどこでもまた可能なかぎり、自治主義、「民主主義」を固執し、これは、(常規を逸して熱中するものの場合には)無政府主義にゆきつく。後者は上から出発しようとつとめ、部分に対する中央部の権利と全権との拡張を固執する離散状態とサークル根性との時代に、革命的社会民主主義が組織上の出発点にしようとのぞんだこの上部機関となったのは、不可避的に、サークルの一つ、その活動とその革命的な首尾一貫性とによってもっとも有力なサークル(われわれのばあいには「イスクラ」組織)であった。党の事実上の統一が再建され、時代おくれになった諸サークルがこの統一のなかに解消された時代には、この上部機関となるのは、不可避的に、党の最高機関としての党大会である。この大会は、活動的な諸組織のすべての代表をできるかぎりむすびあわせ、中央諸機関(しばしば、党の遅れた分子よりも先進分子を満足させ、党の日和見主義的翼よりも革命的翼の気にいるような構成の)を任命して、それらの機関をつぎの大会までの彼らの上部機関とする。[9]


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