一柳直照
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 凡例一柳 直照
時代江戸時代前期
生誕寛永3年(1626年)
死没寛文7年4月5日(1667年5月27日)
別名藤宮(幼名)、熊之助、半左衛門、半弥[1][2]
戒名覚源院殿了性日真大居士[2]
墓所東京都杉並区の妙祝寺
幕府江戸幕府
氏族一柳氏
父母父:一柳直重
母:菊亭公矩の娘、あるいは一柳盛晴の娘
兄弟直興、直照
妻正室:水谷勝隆の娘[1]
直増、土屋朝直室
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一柳 直照(ひとつやなぎ なおてる)は、江戸時代前期の旗本伊予国西条藩一柳直重の二男で、5000石を分知されて旗本家を興し、同国宇摩郡津根村八日市(現在の愛媛県四国中央市土居町津根)に八日市陣屋を置いた。
生涯

寛永3年(1626年)、一柳直重の二男として[1]、伊勢神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)[注釈 1]に生まれる[3]。『寛政重修諸家譜』では母は菊亭大納言公矩の娘とあるが[1]、一柳家の史料をもとに編纂された『一柳家史紀要』では、直重の側室の長養院殿[注釈 2](一柳盛晴[注釈 3]の娘)であるという[4]

寛永15年(1638年)11月、13歳で徳川家光に拝謁[1]。正保2年(1645年)に西条藩主であった父の直重が死去すると、同年12月に遺領3万石を兄の一柳直興(西条藩主)が2万5000石、直照が5000石(宇摩郡内)で分割して相続が行われた[1]。直照は津根村八日市に陣屋(八日市陣屋)を置いた[4][注釈 4]。正保4年(1647年)、暇を賜って知行地に赴く[1]

万治3年(1660年)頃までに室川と加茂川の河口の間に干拓され開かれた5か所の新田は「半弥新田(あるいは半弥新開)」の名で総称されているが、『西条誌』によればこれは直照(一柳半弥)にちなむものという[7][8]。ただし、本家の城下付近まで分家が開拓するのは不審であるという異論もある[8]

寛文5年(1665年)に兄の一柳直興が改易されると、祭祀を継いだという[4][注釈 5]。この年、宇摩郡内の幕府領722石(あるいは651石[9])が直照に与えられており[10]、『愛媛県史』では西条一柳家の祭祀料ではないかと推測している[10]

寛文7年(1667年)4月5日没、42歳[1][2]。麻布の妙祝寺[注釈 6]に葬られた[1][4]。家督は子の一柳直増が継いだ。
備考

直照の家は、子の
一柳直増の代に播磨国美嚢郡に移され、高木陣屋5000石の大身旗本として幕末まで続いた。江戸時代後期には一柳直敬が甲府勤番支配、一柳直方が浦賀奉行・日光奉行を務めている。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 祖父の一柳直盛神戸藩主であった。
^ 『一柳家史紀要』によれば、正室栄法院殿(菊亭公矩の娘)没後に後室に準じられ、慶安5年(1652年)没、法名「長養院殿菊源景広大姉」。伊予西条の常福寺に葬られた[4]
^ 一柳盛晴(源左衛門尉)は、一柳直末(直重の伯父)の娘婿となった稲葉源左衛門尉(一柳右京)末晴の二男で、兄の直晴は一時期一柳直盛(直重の父)の養子になっていた人物という[5]。なお、盛晴の子が一柳直好は会津藩に仕えており[5]、末裔の家の墓域に長養院殿の「招魂碑」があるという[4]
^ 直照が陣屋を置いた津根村は、宇摩郡唯一の式内社とされる村山神社が鎮座するなど、古い歴史を持つ地域である[6]。次代の直増はその晩年にあたる元禄16年(1703年)に播磨国に移されており、八日市陣屋は2代約60年で役割を終えることになる。
^ 『一柳家史紀要』を編纂した一柳貞吉は直照の子孫(直増の二男増海の末裔)であり、直照直系の家を「宗家」と位置付けている。『寛政譜』では一柳の宗家は直興で断絶しており、直照の家は別家の扱いである。
^ 大正時代に豊多摩郡和田堀町堀ノ内(現在の杉並区梅里)に移転[11]

出典^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.157-158、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.157。
^ a b c 一柳貞吉 1933, p. 35.
^ 一柳貞吉 1933, p. 30.
^ a b c d e f 一柳貞吉 1933, p. 31.


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