凡例一柳 直末
時代戦国時代-安土桃山時代
生誕天文22年(1553年)[1][2][3]
(別説に天文15年(1546年)[4])
死没天正18年3月29日(1590年5月3日)
改名直末、末安
別名熊(幼名)[5]、市助[4](または市介[5])
戒名大通院殿天叟長運大禅定門[1][注釈 1]
墓所静岡県三島市山中新田の宗閑寺
静岡県駿東郡長泉町下長窪の「首塚」
官位従五位下伊豆守[4]
主君豊臣秀吉
氏族一柳氏
父母父:一柳直高 母:稲葉一鉄の姪
兄弟直末、女(小川祐忠室)、直盛、直道
一柳 直末(ひとつやなぎ なおすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣秀吉に早い時期から仕えて黄母衣衆の一人となり、豊臣政権下で美濃国大垣城主・軽海城主などを務めたが、山中城の戦いで戦死した。末安(すえやす)の名でも知られる[7]。弟に一柳直盛がいる。
秀吉がまだ木下を称していた時期からの「子飼いの家来」[7]とも評される人物で、秀吉からの多くの書状が伝えられている。直末・直盛兄弟の武功記として、直末の甥(直盛の子)にあたる直良が記した『一柳家記』がある。 美濃国厚見郡西野村(あるいは今泉村[8]。現在の岐阜県岐阜市西野町)の住人・一柳直高の子として誕生[9][4]。『一柳家記』によれば、母は稲葉一鉄の姪(姉の娘)[9][10]。38歳没とする説をとるならば天文22年(1553年)生まれ[1]、45歳没とする説[6][4]をとるならば天文15年(1546年)生まれとなる。 元亀元年(1570年)より、織田氏の家臣・木下秀吉(のちの羽柴(豊臣)秀吉)に仕えた[4]。天正元年(1573年)の浅井氏との小谷城の戦いでたびたび武功を挙げ、戦後長浜城主となった秀吉から黄母衣を預けられた7人(黄母衣衆)のうちの1人となった[11][5][注釈 2]。250貫の知行と感状を与えられたという[14]。 天正6年(1578年)、秀吉に従って播磨国に転戦し、三木合戦に従軍[12][15]。播磨国で2500石の知行を得て、美濃国にいた弟の直盛(四郎右衛門、のち監物)を呼び寄せ、被官とした[12][15]。天正7年(1579年)の秀吉による因幡国への侵攻[注釈 3]に従う[15]。
生涯
秀吉に仕える