凡例一条経輔
時代室町時代前期
生誕明徳3年/元中9年(1392年)
死没不詳
改名良忠(初名)→経輔
官位正二位、権大納言
主君後小松天皇→称光天皇
氏族一条家
父母父:一条経嗣、母:鷹司冬通の娘
兄弟雲章一慶、経輔、兼良、良済、祐厳、
良什、義玄
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一条 経輔(いちじょう つねすけ)は、室町時代前期の公卿。関白・一条経嗣の長男。官位は正二位・権大納言。 初名は良忠。義祖父・一条経通の例[1]に従い、応永2年12月(1396年1月)に吉田社に参詣し元服。それと同時に正五位下・禁色宣下。応永3年(1396年)に従三位・権中納言に叙任され、応永5年(1398年)に正三位に叙される。 応永8年(1401年)に従二位・権大納言に叙任され、橘氏是定を務めている。応永10年(1403年)正二位に叙される。しかし、病弱であり、応永18年11月(1412年1月)に権大納言を辞任し、応永23年(1416年)に出家した。その後の消息は不明。一条家は異母弟の兼良が継いだ。 ※以下、註釈が無いものは『公卿補任』の記載に従う。
経歴
官歴
応永2年12月14日(1396年1月24日):元服し、正五位下に陞叙、禁色を聴す[2]。
応永3年(1396年)10月21日:権中納言に任じ、従三位に初叙。左近衛中将如元
応永5年(1398年)正月13日:正三位に陞叙。
応永8年(1401年)正月5日:従二位に陞叙。3月24日:権大納言に任ず。10月20日:橘氏是定と為す。
応永10年(1403年)正月6日:正二位に陞叙。
応永15年(1408年)4月:名を経輔と改む。
応永18年11月25日(1412年1月8日):権大納言を辞任。
応永23年(1416年)8月25日:出家。
脚注^ 『荒暦
^ 『続史愚抄』応永2年12月14日条