凡例一条房基
時代戦国時代
生誕大永2年(1522年)
死没天文18年4月12日(1549年5月9日)
戒名光寿寺殿三品中郎将香叔
墓所高知県四万十市中村小姓町の一条房基供養墓
官位従三位、右近衛中将
氏族土佐一条氏
父母父:一条房冬、母:玉姫(伏見宮邦高親王娘)
兄弟房基、大内晴持、真海
妻正室:大友義鑑娘
子兼定、安芸国虎正室、阿喜多(伊東義益正室)
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一条 房基(いちじょう ふさもと)は、戦国時代の公家。権中納言・一条房冬の子。土佐一条氏3代目当主[1]。 享禄3年(1530年)従五位下に叙爵し、享禄5年(1532年)右近衛中将に任官する。天文6年(1537年)従四位下に叙せられるが引き続き中将を兼ねると、天文8年(1539年)従四位上次いで正四位下と昇進し、天文9年(1540年)従三位に叙せられて公卿に列し、三位中将となった。 天文10年(1541年)阿波権守を兼ねるが、同年11月の父・房冬の死後、家督を継いだ。智勇に優れた人物で、天文13年(1544年)には長宗我部国親と本山茂宗の縁組と和平の仲介を行う一方、自身は領土拡大するなど、一条家の勢力拡大に成功している。天文11年(1542年)に謀反を起こした津野基高
経歴
しかし、天文18年(1549年)4月12日に自害した。理由は明らかでなく、狂気によるとも[3]、暗殺された可能性も指摘されている[4]。享年28。最終官位は従三位右近衛中将兼阿波権守。
土佐一条氏は嫡男の兼定が継いだ。墓は光寿寺にあったが、同寺の廃寺後、墓の所在が不明となった。後に供養墓が再建されている。 『諸家伝 『諸家伝』による。
偏諱を与えた人物
津野基高 - 津野氏当主。前述の通り、謀反を起こして敗れ房基に臣従。
官歴
享禄3年(1530年) 9月9日:従五位下
享禄5年(1532年) 5月19日:右近衛中将
天文4年(1535年) 9月27日:正五位下
天文6年(1537年) 正月14日:従四位下、中将如元
天文8年(1539年) 正月25日:従四位上。8月23日:正四位下
天文9年(1540年) 12月12日:従三位、中将如元
天文10年(1541年) 3月27日:兼阿波権守。11月6日:喪父
天文18年(1549年) 4月12日:薨去
系譜
父:一条房冬
母:玉姫(伏見宮邦高親王娘)
妻:大友義鑑娘
男子:一条兼定
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}女子:安芸国虎正室[要出典]
女子:阿喜多(伊東義益正室)[要出典]
脚注^ 中村市史編纂室編『中村市史 正編』(1969年)208頁
^ 宮地啓介「仁淀川下流における土佐一条氏の動向」(市村高男編『中世土佐の世界と一条氏』(高志書院、2010年) ISBN 978-4-86215-080-6)
^ 『諸家伝』
^ 市村高男「戦国都市中村の実像と土佐一条氏」(『西南四国歴史文化論叢よど』10号、2009年)
参考文献
正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年
中村市史編纂室編『中村市史 正編』(1969年)
市村高男「戦国都市中村の実像と土佐一条氏」(『西南四国歴史文化論叢よど』10号、2009年)
宮地啓介「仁淀川下流における土佐一条氏の動向」(市村高男編『中世土佐の世界と一条氏』(高志書院、2010年)
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話
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