日本の政治家一条 実輝いちじょう さねてる
一条実輝(『華族画報』より)
生年月日1866年10月2日
(慶応2年8月24日)
没年月日 (1924-07-09) 1924年7月9日(57歳没)
称号正二位
大礼記念章
旭日重光章
勲一等瑞宝章
配偶者一条良子
一条悦子
子女長男・一条実基
一条 実輝(いちじょう さねてる、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:一條 實輝、1866年10月2日〈慶応2年8月24日〉 - 1924年〈大正13年〉7月9日)は、日本の華族、海軍軍人。海軍大佐・正二位・公爵に上り、東宮侍従長を務める。陸軍中将・侯爵の四条隆謌七男。後陽成天皇の男系八世子孫である。
一条家は藤原北家、九条道家の三男実経を始祖とし、五摂家の一つに数えられる。昭憲皇太后は義理の叔母。南部家第46代当主の南部利文は曾孫。醍醐家第7代並びに第9代当主の醍醐輝弘は大伯父。 実父は四条隆平だが隆平の兄・四条隆謌の子として育つ。実輝は、自身のはとこにあたる一条忠貞の跡を受け、1883年(明治16年)9月20日に家督を継承[1]。1884年(明治17年)7月7日、公爵に叙爵される[2]。1887年(明治20年)7月25日に海軍兵学校(第14期[3])を卒業[4]。1889年(明治22年)フランス留学[5]。1891年(明治24年)、松島艦で帰国した[6]。同年7月6日、貴族院公爵議員に就任[5][7]。その後、従軍した日清戦争、その後の日露戦争で功を挙げる。その後、駐フランス公使館附海軍武官となる[8]。1908年(明治41年)1月20日、海軍大佐に昇進し予備役に編入となり、当時の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)に仕える東宮侍従長に任じられた[9]。 1912年(大正元年)9月21日、掌典次長に任じられた[10]。1913年(大正2年)8月9日、宮中顧問官となる[11]。 1914年(大正3年)5月24日、昭憲皇太后の大喪使祭官長として祭詞を奏上した[原文 1]。同年8月24日に後備役となり[12]、1919年(大正8年)8月24日に退役した[13]。 1920年(大正9年)10月8日、明治神宮初代宮司に就任する[6][14][注 1]。11月11日、大正天皇が明治神宮を親謁した際には、侍従を介して玉串拝礼を行い、実輝が神前に奉奠した[15]。 1924年(大正13年)7月9日、肋膜炎のため59歳で薨去した[16]。7月13日、貴族院より弔辞が贈られた[原文 2]。7月14日、勅使として山縣辰吉
生涯
栄典
位階
1896年(明治29年)12月21日 - 従三位[19]
1900年(明治33年)12月10日 - 正三位[20]
1907年(明治40年)12月20日 - 従二位[21]
1915年(大正04年)12月28日 - 正二位[22]
勲章