一条天皇
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一条天皇
一条天皇像(真正極楽寺蔵)
第66代天皇
在位期間
986年8月1日 - 1011年7月16日
寛和2年6月23日 - 寛弘8年6月13日
即位礼986年8月30日(寛和2年7月22日
大嘗祭986年12月18日(寛和2年11月15日
元号寛和
永延
永祚
正暦
長徳
長保
寛弘
時代平安時代
先代花山天皇
次代三条天皇

誕生980年7月15日天元3年6月1日[1]
東三条第
崩御1011年7月25日寛弘8年6月22日[2]
一条院中殿[2]
大喪儀1011年8月9日(寛弘8年7月8日
陵所円融寺北陵
追号一条院
(一条天皇)
諱懐仁
別称永延帝
精進覚・妙覚(法名)
父親円融天皇
母親藤原詮子
皇后藤原定子
中宮藤原彰子
女御藤原義子
藤原元子
藤原尊子
子女脩子内親王
敦康親王
?子内親王
後一条天皇
後朱雀天皇
皇居平安宮・一条院・東三条院・枇杷殿
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一条天皇(いちじょう てんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:一條天皇、980年7月15日天元3年6月1日)- 1011年7月25日寛弘8年6月22日[2])は、日本の第66代天皇(在位:986年8月1日寛和2年6月23日)- 1011年7月16日(寛弘8年6月13日))。は懐仁(やすひと)[注釈 1]

円融天皇の第1皇子[4]。母は藤原詮子藤原兼家娘)。兄弟姉妹はおらず、従兄弟に前帝・花山天皇と次帝・三条天皇がいる。
略歴

永観2年(984年8月27日花山天皇皇位を継いだ時、皇嗣に立てられる。寛和2年(986年6月23日8月1日)、花山天皇が内裏を抜け出して出家したため、数え年7歳で即位した。これは孫の早期即位を狙った藤原兼家の陰謀といわれる(寛和の変)。皇太子には従兄にあたる居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に兼家が就任した(後に関白)。

7月22日、大極殿において即位の義が行われた。この時に大極殿北廂東幔内に摂政が伺候することが確立したとされ、それは天皇と摂関との新たな関係を示すものであった[5]。『大鏡』によると、一条天皇の即位式の日に大極殿の高御座に髪の毛が付いた生首が転がっていた「髪つきたるものの、頭の、血うちつきたる」が置かれていたという説話が見える[6]。実際にこのようなことがあったとは思えないが、一条の即位を快く思わない勢力があったことを窺わせる逸話である[6]

永祚2年(990年)正月、太政大臣となった兼家の加冠により元服が行われるが、程なく兼家は病死する。兼家の死後は長男の道隆が引き続き外戚として関白を務め、一条天皇の皇后に娘の定子を入れ、中宮を号させるが、長徳元年(995年)に病没。代わりに弟の道兼が関白に就任するがわずか7日後に没し、道隆の子伊周との争いに勝利した道隆・道兼の弟道長が、姉で天皇の生母・詮子の推挙を受け、内覧となって実権を掌握した。道長は先に中宮を号していた定子を皇后宮と号し、娘の彰子も皇后に立てて中宮を号させる事で一帝二后の先例を開いた。

一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、寒い夜にはわざと御直垂を推し脱いでいた。彰子がそのわけを聞くと、一条は「日本国の人民の寒かるらむに、吾、かくて暖かにてたのしく寝たるが不憫なれば」と答えたとされる[7]。いかにも気配りの効く一条らしい説話だが、実はこの話は中国の孝子伝に原拠を持つものである[8]。この話は古く仁コ天皇と結び付けられ、彰子らの目から見たビューであろう。

また道長が内覧に留まったのは、当時閣議に出られない決まりがあった摂政・関白よりも、内覧を兼ねたまま一上(閣員の首座)として実権を掌握しようとしたためと見られるが、天皇自身も長ずるにつれ曽祖父の醍醐天皇・祖父の村上天皇のような親政を志したとされる。道長も天皇と協調し、これにより後に大江匡房が『続本朝往生伝』で藤原実資藤原行成等の有能な人材を輩出したと称えたほど、有為な政治体制が確立した。特に、長保元年7月27日999年9月9日)に発布された「長保元年令」は、後の新制の基本として公家社会に重んじられ、中世公家法に対しても強い影響を与えていた。

一方で天皇と道長・彰子の関係が決して良好ではなかったと見る説もある。藤原行成の日記『権記』には、晩年に定子が生んだ敦康親王を次期東宮に望んでいたが、行成が道長の意向を尊重し、敦成親王を東宮にするよう天皇に進言したことが記述されている。1220年頃に成立した『愚管抄』には天皇崩御後、道長・彰子は天皇の遺品の整理中に一通の手紙を発見し、その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていて、これを「道長一族の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長はその文を焼き捨てたという一件がある。同じ頃に成立した『古事談』にも似たような話が記載されている。

かねてより譲位の意向を道長に伝えていたが、慰留されるうちに寛弘8年(1011年)5月末頃には病が重くなり[9]、同年6月13日に皇太子居貞親王(三条天皇)に譲位太上天皇となり、19日に出家するものの、その3日後の22日に崩御する。宝算32。7月8日夜に火葬されたという[10]

辞世の歌は『御堂関白記』によれば「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」。ただし『権記』では「事ぞ悲しき」で結び、初二句は『新古今集』巻第八哀傷歌収録では「秋風の 露の宿りに」となっている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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