一条内経
[Wikipedia|▼Menu]

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "一条内経" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年11月)

 凡例一条内経
時代鎌倉時代後期
生誕正応4年7月17日1291年8月12日
死没正中2年10月1日1325年11月7日
別名号:芬陀利華院関白
官位従一位関白内大臣
主君後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族一条家
父母父:一条内実
母:一条実経の娘(一条家経の異母妹)
兄弟内経、鷹司冬教
西園寺公顕の娘
経通
テンプレートを表示

一条 内経(いちじょう うちつね)は、鎌倉時代後期の公卿歌人内大臣一条内実の子。官位従一位関白一条家4代当主。号は芬陀利華院関白(ふんだりかいん かんぱく)。
経歴

正安元年(1301年)に元服して翌年に公卿に列する。嘉元2年(1304年)、父の急死によって14歳で一条家を継いだ。『玉葉和歌集』以下の勅撰和歌集や『文保御百首』・『続現葉集』などに採録される優れた歌人であったが、政治的な才には乏しかったという。

増鏡』第十三「秋のみ山」には、文保2年(1318年)3月の後醍醐天皇即位時の行列で花山院家定と行列の序列を巡る争いが見える(この時の内経の官位は正二位行権大納言兼左大将)。文保3年(1319年)には従一位・関白・藤氏長者に昇った。

一条家の菩提所として東福寺芬陀院(ふんだいん)を建立した。正中2年(1325年)、35歳で病死。法号は芬陀利華院。

群書類従には、弘安8年(1285年亀山上皇から弘安礼節の編纂を命じられた担当者として花山院家定・二条資季と共に名前を挙げられているが、いずれも弘安8年当時に活躍していた人物ではないために疑問視されており、その編纂経緯に関しては不明である。










藤氏長者
飛鳥時代

藤原鎌足 669

中臣意美麻呂 669-698

奈良時代

藤原不比等 698-720

藤原房前 720-737

藤原武智麻呂 737

藤原豊成 737-757

藤原仲麻呂 757-764

藤原豊成 764-766

藤原永手 766-771

藤原良継 771-777

藤原魚名 778-782

藤原田麻呂 782-783

藤原是公 783-789

平安時代

藤原継縄 789-796

藤原内麻呂 796-812

藤原園人 812-818

藤原冬嗣 818-826

藤原緒嗣 826-843


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef