一条兼定
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 凡例一条 兼定
一条兼定像(龍集寺像)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文12年(1543年
死没天正13年7月1日1585年7月27日
改名万千代(幼名)→兼定→宗惟(法号)
官位従三位権中納言
氏族土佐一条氏
父母父:一条房基、母:大友義鑑の娘
養父:一条房通
兄弟兼定、女子(伊東義益室)、女子(安芸国虎室)
妻正室:宇都宮豊綱の娘
継室:ジュスタ (大友義鎮の長女)
おまん(豊後国緒方氏の女)[1]
おゆき(平田村の源右衛門あるいは鍛冶屋の女)[1]
内政按察使局、マダレイナ[2]
養女(中山田泰吉室)、右衛門太郎[1]、正太郎[3]
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一条 兼定(いちじょう かねさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公家大名キリシタンでもある。土佐一条氏の事実上の最後の当主。従三位一条房基の子。
生涯

天文12年(1543年)、一条房基の嫡男として、土佐国幡多郡中村で生まれた[4]

天文18年(1549年)4月、父の房基が自殺したため7歳で家督を継いだ。このため、土佐一条氏出身で関白となっていた大叔父(兼定の祖父・一条房冬の弟)の一条房通猶子となって上洛した[5]

房通が亡くなった弘治2年(1556年)以後に元服、房通の跡を継いだ義兄の一条兼冬より偏諱(「兼」の字)を受けて、兼定と名乗った。

弘治2年(1556年)から弘治3年(1557年)の間に土佐国に下向する[5]

永禄元年(1558年)に伊予国宇都宮豊綱の娘を娶るが、永禄7年(1564年)に離別して豊後国大友義鎮の長女を娶り大友氏と結んだ[6]。また、伊予国の覇権をめぐって永禄11年(1568年)には豊綱を支援して伊予に進出するが、安芸国毛利氏の援兵を受けた河野氏と戦って敗退した(毛利氏の伊予出兵)。また、京都の一条家本家(当主は兼冬の弟・内基)とも次第に疎遠になってきていた。

この頃から土佐国において長宗我部元親が台頭すると、妹婿の安芸国虎と呼応してこれを討とうとしたが、永禄12年(1569年)に国虎が逆に元親に討たれた。その後は長宗我部氏によって領土を侵食され、また御一門の血縁者である土居宗珊とその一族を無実の罪で殺害したために信望を失い、他の三家老である羽生監物、為松若狭守、安並和泉守などの合議によって天正元年(1573年)9月に隠居を強制された。土居一族殺害については、兼定の名を騙る長宗我部家臣の吉良親貞の密偵の仕業、三家老の合議による謀略、長宗我部側の謀略に気づいた三家老が、主君兼定を岳父である九州の大友氏の元へ逃がす策である、などの諸説があるがいずれも定説ではない。なお、この際に本家より義弟の一条内基が訪れ、兼定の嫡子・万千代(吉房子とも)の元服を執り行い1字を与えて内政と名乗らせている。

天正元年(1573年)6月16日には中納言に任じられた。なおこの時、土佐に下向していた公家である町経光・白河富親・中御門経弘・飛鳥井雅量等も侍従に任じられている[7]

天正2年(1574年)2月に中村御所を出て九州へ渡った[8]豊後臼杵へ逃れ、大友氏を頼っている[8](佐伯に至り、佐伯惟教に迎えられたとする資料も存在する[9])。老臣達によって追放されたとされてきたが[10]、実際は長宗我部元親と京都から下向した一条内基との協議、あるいは一条内基の了承により、元親が兼定を追放したとされている[11][12][13][14]。数ヶ月の後には伊予高森城の城主で宇都宮氏旧臣でもある梶谷景則のもとに赴き、土佐国攻略のための兵を募っている。

一方、兼定の追放を知り憤慨した加久見城主の加久見左衛門は、平素から土佐一条氏老臣に反感を抱いていた大岐左京進、大塚八木右衛門、江口玄蕃、橋本和泉らと謀り、挙兵して中村を襲い、老臣らを討伐した。しかし、この混乱に乗じ、叛乱鎮定に名を借りた長宗我部氏により、中村を占領されることになった。

翌天正3年(1575年)に宣教師ジョアン・カブラルから洗礼を受け、キリスト教入信した。霊名はドン・パウロ[15][16]

同年7月、兼定は再興を図って大友氏の助けを借り土佐国へ進撃したが、四万十川の戦いで大敗し敗走した。以降勢力を回復することはできず、土佐一条氏は滅亡した。

その後は宇和海戸島に隠棲したが、旧臣であり、一条氏の縁者の入江左近に暗殺されかけ重傷を負った事件や、生活の苦心がアレッサンドロ・ヴァリニャーノの書簡などから窺える。天正9年(1581年)、ヴァリニャーノは京都から長崎への帰路の途上に兼定を見舞っているが、その際、兼定は熱心で信心深い信仰生活を送っており、ヴァリニャーノは感嘆したという[17]

天正13年(1585年)7月1日に死去[5]。戸島の龍集寺にある墓は、宝篋印塔の形式で現在は、その一部が欠けている[18]。戒名は天真院殿自得宗性家門大居士[18]

なお嫡男内政も翌7月2日に死去している[19]
人物

1代で土佐一条氏を滅ぼしたため『
土佐物語』など軍記には暗愚な人物として描かれている[20]。ただこれらは時代が下ってから記されたものであるので信用性に疑問が残る。追放後も、四万十川の戦いに際して伊予・土佐の国人領主の支持を受け、更に長宗我部氏の工作に買収された旧臣に殺されかかるなど、兼定は最後まで旧領回復の強い意思を示し、反対に長宗我部氏はその存在を警戒し続けたことがうかがえる[21]

兼定の隠居については、土佐一条家の戦国大名化を嫌う京都の一条家当主である一条内基の強い意向であったとする説[22]が今日の有力説となっている。


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