一条ゆかり
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一条 ゆかり
本名藤本 典子(ふじもと のりこ)
生誕 (1949-09-19) 1949年9月19日(74歳)
日本 岡山県玉野市
活動期間1968年 -
(1968年以前に単行本デビュー)
ジャンル少女漫画
代表作『砂の城
有閑倶楽部
受賞第10回講談社漫画賞少女部門
(『有閑倶楽部』)
第11回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞
(『プライド』)
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一条 ゆかり(いちじょう ゆかり、本名:藤本 典子(ふじもと のりこ)、1949年9月19日 - )は、日本漫画家岡山県玉野市出身。玉野市立玉野商業高等学校卒業。

少女漫画の技法に貢献した。代表作に『デザイナー』『砂の城』『有閑倶楽部』『プライド』等[1]
概要

1960年代終わりから70年代の半ばごろ、少女漫画の華麗な画風の進展をリードした作家。平面的・装飾的とも言えるイラスト的な線によるドラマチックな表現を進めた。当時の発表の場である『りぼん』『りぼんコミック』は当時の少女漫画の前衛的な場の一つともなっていた。

その後も総じて安定した長期の作家活動をしている。コメディ「有閑倶楽部」は長くシリーズ化されたヒット作となっている。
略歴

6人きょうだい(姉2人兄3人)の末っ子として生まれる
[2]。中学時代より精力的に漫画を描き始める。

高校1年生時の作品「雨の子ノンちゃん」(若木書房)で単行本デビュー。

1967年昭和42年) - 第1回りぼん新人漫画賞に「雪のセレナーデ」で準入選。

1968年(昭和43年) - 同作で再デビュー。同年春に高校を卒業。

1969年(昭和44年) - 少女誌での連載を続ける気持ちを固め、上京。

1970年(昭和45年) - 『りぼん』にて最初の連載「恋はお手やわらかに」を開始[3]。同年8月号より始めた「風の中のクレオ」がヒット。

1972年(昭和47年) - 『りぼん』の別冊付録として『一条ゆかり全集』(全6作)を刊行。その後は「デザイナー」「砂の城」などの作品でヒットを飛ばした。シリアスな作品を執筆する傍らで「こいきな奴ら」「有閑倶楽部」などのコメディ色が強い作品も執筆している。

1986年(昭和61年) - 「有閑倶楽部」で第10回講談社漫画賞少女部門受賞。長年に渡って集英社りぼん』にて執筆していたが、『コーラス』に移籍して活動している。

2007年平成19年) - 「プライド」で第11回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。

2008年(平成20年) - 漫画家デビュー40周年を迎えた。

2014年(平成26年) - 公益社団法人 土木学会 市民普請倶楽部 のプロデュースを行う[4]

2018年(平成30年) - 画業50周年を記念して東京都の弥生美術館にて展覧会「一条ゆかり展」を開催[5]。2019年に愛知県、2021年に福岡県でも同展を開催[5]

人物

1987年9月19日から1994年頃、当時、集英社の担当編集者だった男性と結婚していたが[注 1]、その後離婚して独身となる。
なお大の酒好きである元夫の理想の妻は、大酒飲みの気持ちを理解できる同じ酒豪の女性だったので2人は結婚に至り、「何が取り柄になるかわかったもんじゃない」、「私にとって実に都合の良い男」等と一条本人は結婚当時のエッセイにて分析している[注 2][注 3]


「有閑倶楽部」の公式ページに設置されている作品クイズに苦戦。初級レベルで一度間違え、最上級で断念した[9]


かなりの食通・愛酒家だが小食である。旅行の行先も食事のおいしいところを選んでおり、メルヘン嫌いも相まってイギリスに行きたくないと語っていた。 好物は牡蠣だが、生牡蠣アレルギーであり、食べると蕁麻疹が出るとのこと[10]。 幼少期は野菜全般が嫌いであり、今もネギや漬物の類は嫌っており、野菜のキムチは嫌悪している(タコキムチなどは好きとのこと)[10]


好きな作家について尋ねられた際、筒井康隆平井和正星新一らを挙げている[2]

交流がある著名人は藤沢とおる吉住渉俵万智[11]など。


弓月光とは同期であり、山下和美、松苗あけみとは旅行を共にするなどの交流がある。


『スラムダンク』の三井推しであり、同人誌までチェックするなど「少女漫画の女王」と称される程の人物なのに探究心はとどまることを知らず、漫画家のよしながふみ等はその姿勢に感服している。


愛煙家であり、作業場には喫煙ルームがあり、分煙されている[12]


若手の時、先輩少年漫画家から「少女漫画は背景とか適当でいいから楽だな」と言われて悔しい思いをしてから、背景の車等を弓月光新谷かおる及び聖悠紀に書かせるようにした。一条は彼らをメカ3兄弟とよんでいる[13]


2004年の6月に雑誌の締め切り中に緑内障を患う[14]。作業中は時々目が見えなくなることもあるほど悪化しているという[12]。又、この事について新聞のインタビューでも語っていた[14]


作業の前に必ず、花を生ける。生けた花を見ながらアイディアを考えるという。また作業の時は必ず作務衣を着る[12]


左利き。左手に重い腱鞘炎を患っており、ペンを持つ時に左手の人差し指を曲げることが出来ない。痛みを軽減させるため、ネームや下描きの時は右手を使って描くこともある。ただしペン入れだけは利き手である左手で描いている[12]。また、2018年の弥生美術館個展のトークショーでは、10年にわたる休業の結果、腱鞘炎はめきめき良くなっていると発言している。[15]


2022年近況と漫画制作について

6月エッセイ集より:『現在、私は漫画家としては第一線を退いていて、たまにイラストを描いたりしてる程度(P.82)』『2.0あった視力は今や0.3くらいで、おまけに乱視で白内障(これは年だから)。両眼が緑内障で片方はほとんど見えない! 腱鞘炎もあるし…ほぼ廃人コース一直線(悲)。 良いも悪いも漫画家人生は満喫したので何の悔いもありません。


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