一月蜂起
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出典検索?: "1月蜂起" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2009年11月)
「ポロニア、1863年」ヤン・マテイコ画、1864年。1863年1月の蜂起失敗後に描かれた作品。囚人たちがシベリアへの移送を待つ情景を描いている。ロシア人の官吏と兵士は、鍛冶屋が黒衣を着た若い女性(擬人化されたポーランド)に手枷をはめるのを眺めている。彼女と引き離されようとしている奥の白衣の女性はリトアニアを象徴している。

1月蜂起または1863年蜂起(ポーランド語: powstanie styczniowe、リトアニア語: 1863 m. sukilimas)は、旧ポーランド・リトアニア共和国領(現在のポーランドリトアニアベラルーシウクライナ北部とロシア西端部)で発生したロシア帝国に対する武装蜂起。1863年1月22日に始まり、1864年4月11日に終結した。最後の反乱者たちが掃討された1865年まで続いたとする場合もある。

蜂起はポーランドの青年がロシア帝国軍に徴兵されることに対する抗議運動と同時に始まり、すぐにポーランド人やリトアニア人の高官や様々な政治家も参加した。反乱軍は規模が小さく、諸外国からの本格的な支援も無かったため、必然的にゲリラ戦術を採用することを余儀なくされた。彼ら反乱軍はいかなる軍事的勝利を得ることも、主要都市や要塞を占拠することも出来なかったが、小作農たちを民族運動から遠ざけようと企図された、ロシア領ポーランド地域における農奴制廃止の効果を薄れさせることには成功した。反乱の参加者たちには処刑やシベリアへの流刑といった残酷な報復が待っていた。こうしたロシア政府の厳しい対応のおかげで、ポーランド・リトアニアの人々はさらなる軍事闘争を引き起こすのをあきらめ、「有機的労働」(Organic work)の理念を受け入れて経済面や文化面での国力強化に専念するようになった。
蜂起前夜1861年、戒厳令が出されたワルシャワに駐屯するロシア軍

ロシア帝国がクリミア戦争に敗れて経済的、政治的に弱体化すると、旧ポーランド・リトアニア共和国領の社会情勢は不穏なものになっていった。ジュゼッペ・ガリバルディカール・マルクスミハイル・バクーニンらの思想に影響を受けた小作農や学生たちは、組織的な示威行動を開始した。1861年にはヴィリニュスだけでも116回のデモ行進があった。愛国者たちによる暴動が立て続けに起きた後、ロシア皇帝アレクサンドル2世の任命したポーランド副王カルル・ランベルト将軍は、1861年10月14日にポーランドにおいて戒厳令をしいた。集会が禁止され、一部の民衆指導者の行動が非合法と決められた。

蜂起の指導者となる人々はサンクトペテルブルクワルシャワ、ヴィリニュス、パリ、ロンドンに密かに結集していた。これらの人々が互いに接触や会合を続ける中で、赤党と白党という2つの主要な党派が形成された。小作農、労働者、一部の聖職者は赤党に、地主や知識人は白党にそれぞれ集まった。1862年には、この2つの指導的なグループが旧ポーランド・リトアニア共和国の支持勢力を構成していた。
旧ポーランド王国地域の蜂起1月蜂起中のポーランド会議王国における諸戦闘1月蜂起中のリトアニアラトビアベラルーシおよびウクライナにおける諸戦闘

蜂起は当時しばし平穏であったヨーロッパに新たな騒擾をもたらす形で始まった。ポーランド人を支援すべしという世論の強い声があったにもかかわらず、フランス、イギリス、オーストリアなどの列強国は、政治的な安定期が失われたことを苦々しく思っていた。潜伏していた蜂起の指導者たちは、ロシア領ポーランド王国政府首班のアレクサンデル・ヴィエロポルスキ伯爵によるロシア軍への徴兵命令を拒んで森に隠れていた青年たちに、武器や装備を提供する目処を立てられなかった。ほぼ約1万人が革命の旗の下に集まった。反乱に参加した者たちは主に都市部の労働者や若い事務員といった層を中心としていたが、貧窮シュラフタの次男以下の息子や、大勢の下級聖職者もかなりの割合で混在していた。

まともに武装もしていない反乱分子を始末するため、ロシア政府はラムゼイ将軍率いる9万人の軍勢をポーランドに送り込んだ。反乱はすぐに鎮圧されるかに思われた。しかし戦いの火蓋が切られ、反乱者の立ち上げたポーランド暫定政府は熱狂的に祖国回復の偉業達成へと邁進し始めた。彼らは「信条、身分、階層の区別のない自由にして平等な全てのポーランドの息子たち」に向けて声明を出した。声明は、小作農の耕している土地は、それが賃貸だろうが領主への奉仕で耕しているものであろうが、今後は無条件に彼らの財産とし、それに伴って領主が失うことになる土地の補償金は国立の中央銀行が拠出するとしていた。


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