一心寺
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この項目では、大阪市の一心寺について説明しています。その他の用法については「一心寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

一心寺

本堂
所在地大阪府大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度39分10.9秒 東経135度30分39.1秒 / 北緯34.653028度 東経135.510861度 / 34.653028; 135.510861座標: 北緯34度39分10.9秒 東経135度30分39.1秒 / 北緯34.653028度 東経135.510861度 / 34.653028; 135.510861
山号坂松山
院号高岳院、嶽院
松平仙千代の戒名「高嶽院殿華窓林陽大童子」から)
宗派浄土宗
本尊阿弥陀如来
創建年文治元年(1185年
開山法然
正式名坂松山高岳院一心寺
別称骨仏の寺、源空庵
札所等法然上人二十五霊場第7番
大阪新四十八願所第39番
文化財絹本著色存牟本誉画像、紙本著色一心寺縁起絵巻、一心寺仏画群25点ほか(市指定有形文化財
骨仏の信仰習俗(市指定無形民俗文化財
公式サイト一心寺 トップページ
法人番号4120005000673
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一心寺(いっしんじ)は、大阪市天王寺区にある浄土宗寺院山号は坂松山(ばんしょうざん)。本尊阿弥陀如来。骨仏の寺としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、広い境内を有している。
歴史一心寺 山門と仁王像本多忠朝の墓

文治元年(1185年)の春、四天王寺別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに四間四面の草庵を結び「荒陵の新別所」と称し、後に「源空庵」と改名して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修したという。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。慶長元年(1596年)、三河国の僧侶であった.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}本誉存牟(ほんよぞんむ)上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寿命山観称院一心寺として再興した。彼の一心称名(しょうみょう)をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。

慶長5年(1600年)2月、徳川家康の8男仙千代大坂で夭折し、その葬儀を一心寺で行った。住持である存牟が家康と同郷の出身であり、また家康が浄土宗の信者であったことにもよる。家康は境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の山号とその寺額を贈り、仙千代の戒名から「高岳院」の院号も贈ったため、一心寺は坂松山高岳院一心寺と改名した。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれている。この寺には翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった[1]。今でも墓所には禁酒を誓う人がよく詣でている。

江戸時代、一心寺は寺社奉行直轄の檀家を持たない特別寺院となったが[2]文化文政時代には衰微していた。だが、50世真阿上人が天保年間(1831年 - 1845年)の中頃に復興させている。復興の一因としては、庶民向けに宗派を問わずに年中無休で無縁の霊を供養する施餓鬼供養を始めたことがあげられる。これによって当寺は「おせがきの寺」として賑わった。また、この評判から、大坂に丁稚奉公で出てきた地方の次男坊らが大坂で先祖供養をしたいと先祖の分骨を一心寺の納骨堂に寄せるようになり、後に納骨堂が限界を迎えるようになった[2]。そこで、1887年明治20年)に嘉永4年(1851年)から同年までに納められた約5万体の遺骨を粉砕して粉にし、鋳型で固めて阿弥陀如来像を制作した。これが骨仏(こつぶつ)の始まりである。

小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、豊臣大坂城の三の丸にあった玉造門を移築した「黒門」と呼ばれた大きな長屋門も有名であったが、1945年昭和20年)3月13日・14日の第1回大阪大空襲で境内のほとんどと6体の骨仏を焼失した。戦後、伽藍を再建すると共に、1947年(昭和22年)には空襲で焼失した戦前分の6体の骨仏の残骸に、新たに約22万体の遺骨を加えて第七期骨仏を完成させ、骨仏作りを再開した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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