一宮城_(阿波国)
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一宮城
徳島県
一宮城の石碑
別名一宮城
城郭構造山城
天守構造不明(天守に近い建物か櫓門の可能性あり)
築城主小笠原長宗
築城年1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)
主な改修者蜂須賀家政
主な城主小笠原成助、蜂須賀家政、益田持正
廃城年1638年(寛永15年)
遺構曲輪石垣、竪堀、空堀、堀切、井戸跡等
指定文化財徳島県指定史跡とくしま市民遺産
再建造物なし
位置北緯34度02分02.6秒 東経134度27分47.1秒 / 北緯34.034056度 東経134.463083度 / 34.034056; 134.463083 (一宮城)座標: 北緯34度02分02.6秒 東経134度27分47.1秒 / 北緯34.034056度 東経134.463083度 / 34.034056; 134.463083 (一宮城)
地図 一宮城

一宮城(いちのみやじょう)は、徳島県徳島市一宮町に位置する日本の城。徳島県指定史跡東山渓県立自然公園指定。とくしま市民遺産選定。目次

1 概要

2 沿革

2.1 築城

2.2 一宮成祐時代

2.3 廃城

2.4 歴代城主


3 城郭

3.1 本丸

3.2 小倉丸

3.3 才蔵丸

3.4 明神丸

3.5 御殿居(里城)

3.6 防備


4 城跡へのアクセス

5 参考文献

6 関連項目

7 外部リンク

概要 一宮城の山

一宮城は、南北朝時代に天険を利用した山城で、のちに大幅に改修された。東竜王山の北東に延びた枝尾根の最先端にあり、本丸部分は標高144.3m、からの比高は約120mの山嶺に築かれ、石垣下は急傾斜となっている。北は鮎喰川、東は船戸川、園瀬川が天然のとして、背後には四国山脈がひかえている。一宮城は南城と北城の二城から成り立っている。本丸は北城に属し、明神丸等の曲輪は南城に属し、山麓には居館があったと言われている。一宮城は徳島県内で最大級の山城である。三好氏長宗我部氏の攻防の舞台にもなった。1954年(昭和29年)8月6日、徳島県指定史跡に指定。

2017年平成29年)4月6日、続日本100名城(176番)に選定された。
沿革
築城

阿波国守護である小笠原長房の四男小笠原長宗が、一宮宗成を滅ぼし1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)にこの地に城郭を築いて移り住み、一宮神社分霊を城内に奉祀した。その後小笠原長宗は一宮氏を称し、一宮城は一宮氏が代々居城とし、神職も兼ねていたようである。 細川頼之像

南北朝時代に小笠原長宗は南朝に属し活躍していたが、細川頼春は南朝の切り崩しにかかった。1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)大西城の小笠原義盛、白地城の大西氏を降して、一宮城に集中攻撃をかけてきた。1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)には小笠原長宗は病死し、息子の一宮成宗が城主となっており、細川頼之軍は手始めに夷山城を攻め、野田山城を焼き討ちした。その勢いに乗じて一宮城に攻め入り麓周辺を焼き討ちにした。一宮城が戦場になったのはこの時が初めてである。その後両者は度々合戦となったが、1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)細川頼之軍と戦って破れ、細川頼之との間で和睦を結び、一宮成宗は息子の一宮成行に城主を譲り、自身は重清城に隠居した。一宮成行は北朝に下りその後細川氏被官となった。永正の錯乱以降、細川家の内乱で度々畿内に出軍した国人衆の中に一宮氏の名前が見られる。 勝瑞城にある勝瑞義家塚碑 長宗我部元親像/秦神社所蔵
一宮成祐時代

阿波国が細川氏に代わって三好氏が支配すると、一宮氏は三好氏と姻戚関係を結んで、一宮城の12代城主一宮成祐(小笠原成助)の時には、三好家臣団の中でも重要な地位を占める事になる。しかし三好長治が阿波国の国主となると、三好家臣団の重鎮であった篠原長房上桜城の戦いで討ち取られ家臣団も分裂状態になる。天正5年(1577年)3月、三好長治は細川真之を討伐するため荒田野の戦いとなったが、細川真之に応じて伊沢頼俊、一宮成祐らが兵を挙げ、三好長治軍の背後を脅かした。そして三好軍が勝瑞城に引き揚げる途中、今切城に入城した三好軍を2千兵で包囲、3日間の攻防戦の上、今切城から脱出した三好長治を追いつめ、同年3月18日朝自害させた。この報を聞いた三好長治方の矢野国村は、勝瑞城で謀をめぐらし同年4月に伊沢頼俊の陣に攻めかけ滅ぼした。一宮成祐は孤立状態となり、香宗我部親泰を頼り長宗我部元親と誼を通じた。

これをうけ同年頃に長宗我部元親は阿波国に侵攻、大西城を奪取した。威勢に乗った一宮成祐は、同年9月に勝瑞城に向けて一旦進軍したものの、宮城梅雪の言をうけ一宮城に帰城する。その最中、淡路軍が横合いから攻撃してきたが、一宮成祐はこれを破った。篠原自遁はこの状況を打開するため、紀伊国、淡路国の援軍をうけ7千の兵で一宮城を攻城した。この状況を不利と悟った一宮成祐は、一宮城を去り焼山寺に引き籠った。翌天正6年(1578年正月十河存保が勝瑞城の城主となったが、翌天正7年(1579年)12月脇城下で十河存保は打撃をうけ敗退、これが切っ掛けとなり一宮成祐は一宮城に帰城した。

天正8年(1580年)正月、一宮成祐は十河存保を忙殺しようとしたが、この事を察知した十河存保は十河城に逃れ、一宮成祐は念願の勝瑞城の城主となった。しかし翌天正9年(1581年)7月織田信長の命で十河存保は、長宗我部元親方の西庄城を攻め落とし、勝ちに乗じて勝瑞城を奪還し一宮城も攻めたが、一宮城は堅く安易には抜けず一宮成祐もよく防いだ。同年9月、長宗我部元親の名代が十河存保と面会し、2万余騎を率いて援軍に駆けつけると聞き、十河存保は囲みを解いて退却した。

翌天正10年(1582年)5月、三好康長高屋城の戦いで織田信長に帰服し、織田政権の四国進出の先軍として阿波国に入国し、十河存保と共に一宮城と夷山城を収めた。ところが同年6月2日本能寺の変がおきると三好康長は急ぎに上がった。この機会を好機ととらえた長宗我部元親は2万3千兵を挙げて阿波国に侵入し、中富川の戦いで十河存保軍を破り阿波国を平定した。

一宮成祐は中富川の戦いで土佐勢の先鋒として活躍したが、長宗我部元親のもとに三好康長と一宮成祐が通じていたことが耳に入った。同年11月7日に恩賞の打ち合わせと偽って一宮成祐を夷山城に招いた。一宮成祐は数名の部下を引き連れて夷山城に向ったが、その途中長宗我部元親の家臣畑弥助の隊が一宮成祐を襲った。一旦は逃げたが次第に追い詰められ自害した。長宗我部元親は後の憂いを無くすため新開道善細川真之など阿波国に招き入れた武将をことごとく殺害していった。


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