一元論
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一元論(いちげんろん、: monism、: monisme、: Monismus)とは一つの実体から現実が成り立っていると主張する形而上学の諸学説を指した用語である。

これに対応する反対の見解を示した学説に実在を二つに区別する二元論(dualism)や実在に対して数的な規定を行わない多元論(pluralism)がある。
概要

あらゆる存在の原理を研究する形而上学において一元論はその原理を単一と規定してきた学説である。一元論の基本的な考え方は世界に見られる多種多様な実体の一般化を通じて統一的に世界を理解しようとするものである。同時に一元論の思考様式は因果性とも関連しており、多種多様であることの原因をも単一であるものと考える。バールーフ・デ・スピノザは二元論に対する批判を通じて古典的な一元論の議論を展開した哲学者である。スピノザの学説の中心にあったのは究極的な原因としてのを前提とする汎神論である。彼は自然に見られるさまざまな様相に神の諸属性を見出している。また人間の精神身体を区分する心身二元論に対しても、どちらかが先立つものではなく、それらは同一のものの二つの側面であると考えていた。

この一元論についてはスピノザ以外にはプラトンライプニッツヘーゲルムーアなどが研究しており、東洋哲学ではヒンドゥー教アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)ヴィシシュタ・アドヴァイタ等)、 ユダヤ教(特にカバラ思想)、キリスト教(特に東方諸教会正教会イングランド国教会)、イスラム教スーフィズムの中の特にベクターシ派の中には、一元論的な多神教や一元論的な汎神論を唱える流派がある。
分類中立一元論をデカルト的二元論,物理主義,観念論と比較した図
宗教での分野
神学全体

哲学者や神学者は汎神論を一元論の一形態とすることがある[1]。異なるタイプの一元論には次のようなものがある[2][3]
実体一元論(substance monism)、 「見かけ上の複数の実体は、単一の実体の異なる状態または外観によるものであるとする見解」[2]。(汎神論唯物論で用いられる[4])。

属性的一元論、「物質の数が何であれ、それらは単一の究極的な種類であるという見解」[2]

部分的一元論、「ある存在領域の中で(どんなに多くても)物質は一つだけである」[2]

存在一元論、「具体的な対象となるトークンは一つだけである」という見解(ザ・ワンまたはモナド[5]

優先的一元論:「全体は部分に先行する」「世界には部分があるが、部分は統合された全体の依存的な断片である」[3]一神教で用いられる(不動の動者宇宙論的証明)。

性質一元論:「すべての性質は単一のタイプであるとする考え方」(例:物理的性質しか存在しない)。

種類一元論:「最高のカテゴリーが存在するという見解(例:存在)」[3]

実体一元論は汎神論唯物論の共通項であり、ルネ・デカルトが提唱した実体二元論(substance dualism)の対立概念として考えられてきた。古典的汎神論の決定論を緩和すれば万有内在神論等の神学的な探求対象にもなる。
一神教やキリスト教

一神教で用いられることがある存在一元論、優先的一元論は適切に区別されてこなかった。存在一元論は優先的一元論を伴う論理関係にあるが、その他の一元論は基本的に独立している。例えば存在多元論者でありながら、優先的一元論者である場合がある。これによると多くのものが存在すると仮定しつつ、世界全体が他の全てに先行する[5]

優先的一元論にはアインシュタインとニールス・ボーアの間で行われた有名なボーア・アインシュタイン論争のテーマから影響された命題もある[5]
全体が(量子もつれによる)創発的な性質を持っている。

全体が創発的な性質を持っているなら、全体は部分よりも先にある。

全体は部分に先行する。

優先的一元論において、存在するすべてのものは、それらとは異なる源に戻り、存在一元論では、宇宙という単一のものしか存在せず、それを恣意的に多くのものに分割することしかできない[6]。実体一元論においては実体や心など様々なものが存在していても、単一の種類のものしか存在しない[7]

キリスト教のスコラ学の論拠とされたアリストテレスは心身二元論の問題では一元論的立場をとった。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}物質の中には一般的に身体、特に自然体が含まれており、それらは他のすべての身体の原理である。自然体の中には、生命を持つものと持たないものがある。生命とは自然治癒力と成長(それに伴う衰え)を意味する。生命を持つ自然体は、複合体の意味での物質であることがわかる。しかし、生命を持つ種類の体でもあることから、体が魂であるはずがない。したがって魂は、生命を潜在的に持つ自然体の形という意味で、物質でなければならない。しかし物質とは現実性のことである。従って魂とは上記の特徴の通り、身体の現実性のことである。—霊魂論、2巻1章

魂は肉体が示す性質であり、数ある中の一つである。アリストテレスは、積み木が破壊されるとその形が消えるように、体が滅びると魂も滅びると提唱した[8]

プラトンの二元論とアリストテレス哲学を統合させた新プラトン主義は存在一元論だけでなく優先的一元論の立場をとり、すべてのものはザ・ワンから派生または流出するとした[9]

スコラ学の代表的神学者カトリック教会聖公会では聖人、カトリック教会の33人の教会博士のうちの1人であるトマス・アクィナス(1225-1274)は、不動の動者から宇宙論的証明神の存在証明)を導出したことで知られるが、アリストテレスと同様に心と体は一体であり、一体であるかどうかを問うことは無意味であると考えた。しかし肉体が一体であるにもかかわらず、肉体の死後も魂が存続することを主張し、魂を「この特殊なもの」と呼んだ。彼の考え方は、哲学的というよりも、神学的なものであったため、一元論者(物理主義者)や二元論者という分類に収めることはできなかった[10]
哲学での分類

現代哲学における一元論は、大きく3つに分けられる。
観念論、現象論、精神一元論。精神だけが実在するとする[11]

中立一元論。1種類のものが根本的に存在するとする[12]。第3の1種類のものに精神的なものも物理的なものも還元されうる[13]

物質一元論(material monism、物理主義唯物論とも呼ばれる)。物理的なものだけが実在し、精神的なものは物理的なものに還元できるとする[11][12]

機能主義、変則的一元論、反射的一元論など、上記のカテゴリーに簡単に収まらない立場もある。
東洋
ヒンドゥー教

鉄器時代の南アジアでは、ヴェーダ時代[14] に一神教への傾倒が見られた。『リグヴェーダ』では特に比較的後期の第10巻[15] にブラフマンの一神教の概念が見られ、宇宙開闢の歌(N?sad?ya S?kta)などは鉄器時代初期のものとされている。古代ヒンドゥー教の神学は一神教であったが、一人の最高神ブラフマンの側面として想定される多くの神々の存在を依然として維持していたため、厳密には一神教的崇拝ではなかった[16]


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