一人っ子政策
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中国の出生率、死亡率

一人っ子政策(ひとりっこせいさく)は中華人民共和国における産児制限政策。特に1979年から2014年まで実施された、原則として一組の夫婦につき子供は一人までとする計画生育政策(??生育政策)を指す。

2015年から2021年までは一組の夫婦につき子供二人までとされていたため、俗に二人っ子政策と呼ばれた。2018年時点で91万3593か所の拠点と9400万人のメンバーを持つ中国計画出産協会が取り締まっていたが、二人っ子政策も効果がほとんどなく廃止が検討され[1]2021年5月31日には中国共産党が一組の夫婦が三人目の子供を出産することを認める方針を示した[2]。同年8月20日には法案が正式に可決された[3]
歴史

中国の人口変動[4](人口:一万人単位)年次年末総人口出生率(%)死亡率(%)自然増加率(%)合計出生率男性
平均寿命女性
平均寿命
195055,19637.0018.0019.005.8146.7049.20
195561,46532.6012.2820.326.26--
196066,20720.8625.43-4.574.02--
196572,53837.889.5028.386.08--
197082,99233.437.6025.835.8163.2065.20
197592,42023.017.3215.693.58--
197896,25918.256.2512.002.73--
198098,70518.216.3411.872.3166.4069.25
1985105,85121.046.7814.262.20--
1990114,33321.066.6714.392.3166.8470.47
1995121,12117.126.5710.551.86--
2000126,74314.036.457.581.68-1.7769.6374.45
2005130,75612.406.515.891.7470.7274.45
2007132,12912.106.935.171.57--

中華人民共和国建国前の中国においては1840年アヘン戦争から1949年の現国家建国に至るまでの109年間に4億1000万人から5億4000万人と、1億3000万人、年平均0.26パーセントの人口増加率にしか過ぎなかった[5]。内戦や自然災害も多く、多産多死の「人口転換」前の段階であり、人口は停滞し続けた[5]。その後、社会は安定し、人口が急増し始める[5]

建国後の出生率の変動過程に注目しつつ、建国後の人口動態史を時期区分すると以下の4つの段階に区分される[6]
第1段階(1949年から1959年)・第1次人口増加期

1952年までをその前半期とする[6]。出生率の急上昇と死亡率の急低下により、自然増加率も2パーセント前後の高い水準にあった[6][4]1950年に制定された『中華人民共和国婚姻法』の理念(数千年来の旧中国の家父長的な家族制度を打破することなくして社会主義国家建設は実現できないとの考え)を徹底させる運動が展開され[6][7]、それまでは身分階層的に結婚できなかった層(多額の持参金を払えなかった男性など)を含めて、結婚ブームが巻き起こった[6][8]。『婚姻法』は、建国前までに見られた、賃借妻や売買婚などの封建的婚姻制度から女性を解放することを目的としていた[6][9]。この時期の社会経済政策の柱は、旧ソビエト連邦の影響を受け、子供に対する特別手当支給、不妊手術や人工妊娠中絶の禁止など、出生を奨励するものであった[10]1953年から1957年までは、第1次人口増加期の後半期になる[10]。1950年から出生率の低下が見られたが、死亡率の低下が著しく、戦乱もなかったため自然増加率はなお2.23パーセントと高水準を維持した[10][11]
第2段階(1959年から1962年)・「2000万人非正常死」の時期

この時期には、異常な自然災害を契機とし、1958年から始まった「大躍進」(積極的に経済を拡大しようとする政策)運動の失敗、誤った生産報告に起因する過剰な食糧の取り立て、中ソ対立に伴うソ連の全面撤退に対する債務返済のための無理な農産物輸送という3つの悪循環が生じたと言われた[10][12]。これについては後年「天災」というよりも、食糧分配の不均衡などの政策上の過ちによる「人災」であったことが明らかにされた[10]。小島後掲書によると、後退は食糧凶作からはじまったが、最大の理由は水利・植林・鉄造りなどに農民が動員されすぎ、収穫時に十分な刈り取りができなかったことにあるとされる[13]。その他、男性が動員された後の農作業を受け持った主婦が不慣れだったり、公共食堂のタダ食いで種子まで食べてしまい、翌年の蒔きつけができなかったりしたことも原因である[14]1960年の死亡率が出生率を上回る「絶対減」が生じ、自然増加率はマイナス0.45パーセントとなった[10]。人口ピラミッド上でも1960年出生コーホート(同時出生集団)人口がくびれており、世界各国の人口ピラミッドでもまれにみるピラミッド形状となる[15]。このことからしても、当時の「大災害期」の凄まじさ(「2000万人非正常死」といわれる)が推測できる[15][16]。実際、今日でも死者の数を伝える正確な記録、資料は残されていない[17]。しかし様々な形で伝えられる数字は、実に1500万人から4000万人に及んでいる[17]。総人口の2.5パーセントから6パーセントに及ぶ餓死者の数である[17]。もちろん餓死線上の人々はその数倍に及ぶと考えられる[17]
第3段階(1963年から1971年)・第2次人口増加期

一般に出生率は、何かの原因によって急低下するとその直後に反動や揺り戻しがあるとされるが、第3段階はその時期にあたり、1963年の出生率は4.337パーセントを記録した[15]。自然増加率は3パーセントの効率を続け、1970年には1年間に2321万人という史上最高の純増を示した[15]。この時期に出生した集団により1980年後半以降の第3次ベビーブームが生じたので、「一人っ子政策」をやむなく継続せざるをえなくなっている[15]
第4段階(1971年以降)・出生率低下期

1969年に3.411パーセントと高かった出生率は1979年には1.782パーセントと半減した[15][12]。人口の純増も1970年の2321万人から1980年の1163万人へと半減している[15]。わずか10年間にこのような出生減を達成した経験は、第二次世界大戦後の日本以外、世界史的にも極めてまれな事例である[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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