一乗寺
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この項目では、兵庫県加西市にある一乗寺について説明しています。その他の一乗寺については「一乗寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

一乗寺
本堂(大悲閣、金堂)
所在地兵庫県加西市坂本町821-17
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度51分33.51秒 東経134度49分8.49秒 / 北緯34.8593083度 東経134.8190250度 / 34.8593083; 134.8190250座標: 北緯34度51分33.51秒 東経134度49分8.49秒 / 北緯34.8593083度 東経134.8190250度 / 34.8593083; 134.8190250
山号法華山
宗派天台宗
本尊聖観音菩薩
創建年伝・白雉元年(650年
開山伝・法道仙人
正式名法華山一乘寺
札所等西国三十三所第26番
播磨西国三十三箇所第33番
播磨天台六山
神仏霊場巡拝の道第77番(兵庫第12番)
文化財三重塔聖徳太子及び天台高僧像10幅(国宝)、金堂・護法堂ほか(重要文化財
法人番号9140005017455
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一乗寺(いちじょうじ)は、兵庫県加西市にある天台宗寺院である。山号は法華山。本尊聖観音菩薩西国三十三所第26番札所。国宝三重塔平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本では屈指の古塔である。境内は、春は、秋は紅葉の名所として知られる。中世には山内に真言律宗の有力律院も併設されており、宗祖の興正菩薩播磨国での布教活動の拠点とした他、真言律宗出身の真言僧後醍醐天皇の腹心だった文観房弘真が仏門に入った地でもある。

本尊真言:おん あろりきゃ そわか

ご詠歌:春は花夏は橘秋は菊 いつも妙(たえ)なる法(のり)の華山(はなやま)
歴史国宝に指定されている三重塔

一乗寺を開山したとされる法道仙人は、天竺インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である。『元亨釈書』等の記述によれば、法道はインドに住んでいたが、紫の雲に乗って中国百済を経て日本へ飛来し、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁を持つハスの花)の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという。法道は神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」と呼ばれていた。法道の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝であった孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。

法道仙人が開基したとの伝承を有する寺院は兵庫県東部地域に集中しており、「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できない。一乗寺には7世紀から8世紀にさかのぼる金銅仏6躯が存在し(うち3躯は重要文化財)、付近には奈良時代にさかのぼる廃寺跡、石仏などが存在することからも、この地域一帯が早くから仏教文化の栄えた地であることは確かである[1]

創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されている。笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われる。現存する一乗寺三重塔は平安時代末期の承安元年(1171年)の建立であるところから、その年までには現在地において伽藍が整備されていたと思われるが、正確な移転時期は不明である。

中世においては、山内に真言律宗の律院も併設されていた[2]。真言律宗の宗祖である興正菩薩叡尊の自伝『感身学正記』弘安8年(1285年7月23日条によれば、弘安6年(1283年)頃から、法華山は「殺生禁断」の起請文(きしょうもん、神仏へ誓う文)を掲げて叡尊の訪問を要望し、宿老4、5人が真言律宗の本拠地である西大寺を訪ねること7回に及んだ[3]。そこで弘安7年(1284年)冬、叡尊は僧侶の評定を開いたのち、法華山への訪問を決定し、弘安8年(1285年)春には伺うと約束していた[3]。ところが、叡尊は、幕府・朝廷双方から四天王寺別当という仏教界の重職に就くよう要請され、さすがに勅命を断れず、結局、弘安8年(1285年)春は四天王寺で活動を行うことになった[3]。そして、遅ればせながら同年7月23日、大和国の西大寺を発ち、28日に法華山に到着した[3]。それから様々な仏教活動が行われ、8月7日には、叡尊は2124人に菩薩戒(出家・在家を問わず守るべき基礎的な規律)を授けた[3]

また、正応3年(1290年)には、後に後醍醐天皇後村上天皇の護持僧(祈祷で天皇を守護する僧)となる文観房弘真が、この地で真言律宗に入信した[4]。このとき文観は数え13歳の少年で、真言律宗の巌智律師という僧に入室し(=弟子となり)、慶尊のもと得度した(=剃髪して出家した)(『瑜伽伝灯鈔』)[4]。このうち後者の観性房慶尊は叡尊の高弟であり、播磨国(兵庫県)での布教活動の指導者格だったと見られる[5]。2年後、文観は正応5年(1292年)に大和国へ留学に旅立ったが[6]、20代後半の時に故郷播磨に戻ってきて10年間ほど開拓事業に尽力しており[7]、当寺境内にある「一乗寺石造笠塔婆」(正和5年(1316年)12月21日、兵庫県指定文化財[8])はこの時に文観の監修によって作られ、大覚寺統後醍醐天皇皇統)に奉献された物と見られる[9]

一乗寺は中世、近世には何度かの火災に遭ったが、平安時代に建築された三重塔などの古建築がよく保存されている。ただし、本堂は姫路藩本多忠政の寄進により、寛永5年(1628年)に再建された。
境内弁天堂(左)と妙見堂(ともに重要文化財)護法堂(重要文化財)

山間に位置する境内は長い石段が続き、数段に分けて整地されている。バス通りに面した境内入口には山門はなく、正面に石造笠塔婆(兵庫県指定文化財)が立つ。その左方には宝物館(平素は非公開)と本坊の地蔵院がある。右方は公園風に整備され、太子堂、放生池、やや奥まった場所に見子大明神の社がある。

境内入口から最初の石段を上った狭い平地の左手に常行堂があり、次の石段を上ると左手に国宝の三重塔、右手に法輪堂(経蔵)がある。三重塔の直上、さらに階段を上った位置に懸崖造の本堂が建つ。このため、本堂の縁に立つと三重塔を見下ろすことができる。本堂裏手には鎮守社の護法堂、妙見堂、弁天堂(以上重要文化財)、行者堂があり、本堂からさらに200メートルほど登った所に、法道仙人を祀る奥の院開山堂が建つ。

本堂(重要文化財) - 大悲閣または金堂とも称する。入母屋造、本瓦葺き、正面9間、側面8間[注 1]。斜面にせり出した懸造とし、内部は広い外陣と、閉鎖的な内陣、脇陣、後陣からなる、密教仏堂の典型的な平面をもつ。


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