一之宮貫前神社
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一之宮貫前神社

拝殿(左)・本殿(右奥)
(いずれも国の重要文化財
所在地群馬県富岡市一ノ宮1535
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度15分18.55秒 東経138度51分27.55秒 / 北緯36.2551528度 東経138.8576528度 / 36.2551528; 138.8576528 (一之宮貫前神社)座標: 北緯36度15分18.55秒 東経138度51分27.55秒 / 北緯36.2551528度 東経138.8576528度 / 36.2551528; 138.8576528 (一之宮貫前神社)
主祭神経津主命
姫大神
社格式内社名神大
上野国一宮
国幣中社
別表神社
創建(伝)安閑天皇元年(534年?)
本殿の様式貫前造
別名抜鉾神社
例祭3月15日
主な神事水的神事、巫射、御戸開祭
鎮神事、酒御造行事
川瀬行事、鹿占神事
機織神事
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}一之宮貫前神社群馬県の地図を表示一之宮貫前神社日本の地図を表示
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一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)は、群馬県富岡市一ノ宮にある神社式内社名神大社)、上野国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社
概要

群馬県南西部、鏑川左岸の河岸段丘上に鎮座し、信州街道に面する。物部君(毛野氏同族)が祖神を祀ったことに始まり、古代には朝廷から、中世以降は武家からも崇敬された。

境内は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置となっている。社殿は江戸時代に第3代将軍徳川家光・第5代綱吉により整えられ、本殿・拝殿・楼門等が重要文化財に指定されている。また、鹿占習俗(国選択・県指定無形民俗文化財)を始めとした多くの特殊神事を行っている。
祭神

祭神は以下の2柱。

経津主神(ふつぬしのかみ)葦原中国(日本)平定に功績があったとされる神。貫前神社では物部氏の祖神と紹介している[注 1]

姫大神(ひめおおかみ)祭神の名前は不詳。一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされる。

なお、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載され主神は女神とされている[1][2]
抜鉾神社と貫前神社

明治以前の歴史書には、「抜鉾神社」と「貫前神社」という2つの記載がある。また『和名抄』には甘楽郡に「抜鉾郷」と「貫前郷」の記載もある。それら「抜鉾」と「貫前」の関係については議論があり、以下の2説が存在する。
2神2社説
抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったとする説。『日本の神々』では、「貫前」の社名は
明治維新後に「抜鉾」から改められたもので、本来は「貫前」と「抜鉾」の2神2社であったものが「抜鉾」時代に2神1社となり、明治になって公式には1神1社になった、と述べている。さらに続けて、実際には現在も男・女2神を祀り、2神1社の形は残されている、とも述べている。同書では、朱雀天皇承平年間931年-937年)の『和名抄上野国甘楽郡の項に「貫前郷」と「抜鉾郷」の名が見えることから、貫前神社と抜鉾神社は別地に建っていたと考察し、長元3年-4年(1030年-1031年)の『上野国交替実録帳』に「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあって「貫前」の名が無いこと、正一位で勲十二等と言う神階のおかしさ、この2点より『延喜式神名帳』成立後から『上野国交替実録帳』成立以前の間に「貫前」と「抜鉾」が混同されたと推測している。『群馬県の地名』でも、初め2神2社でのちに2神1社となったとしている。なお2神の説明で、貫前神は甘楽郡鏑川に居住した渡来人の神、抜鉾神は碓氷郡・甘楽郡にいた物部氏一族の神としており、これが混同されたとしている[2]
1神1社説
抜鉾神社も貫前神社も同じ神社を指す異なる名であるとする説。『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、「貫前」と「抜鉾」いずれの名も六国史に見え、神階に預かる霊験高い神であるが、『延喜式神名帳』には「貫前神社」を1座としているので両神は1神と見るべきであろう、と述べている。付け加えて、別々の2神であれば、官社の幣帛に預かる2座の神とされたはずであり、『延喜臨時祭式』の「名神祭二百八十五座」の1つに「貫前神社一座或作抜鉾」とある注記は同一神であることを示している、と述べている。さらに、『左経記寛仁元年(1017年)10月2日条に記載の大神宝使に預かる「上野貫前」が、長元3年-4年(1030年-1031年)の国司交代時に作成した『上野国交替実録帳』の「抜鉾大明神」と別々であるとは考えられない、と述べている。
歴史
創建

社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部君姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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