一世_(日系人)
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一世(いっせい)とは、北アメリカ南アメリカオーストラリアなどで使われた、最初に各々の国に移住した日本人日系人)を表す日本語である。移住先で誕生した一世の子供達は「二世」、孫達は「三世」とそれぞれ称される。
各国の移住者

最初に行われた日本人の組織的移住は、1897年に35人がメキシコへ渡った「榎本移民」とされているが[1]、特に多くの日本人移民並びにその子孫が住んでいるのは、ブラジルアメリカ合衆国カナダペルーとされている。
ブラジル1908年笠戸丸に乗ってブラジルに到着した初の日本人移民「日系ブラジル人」を参照

ブラジルでは、日系人以外のブラジル人と結婚して生まれた者も含めると、約150万人にも及ぶ日系人がいると言われ[2]、世界で最も多い日系人の人口を有しており、その多くがブラジル社会において要職を占めるようになっている。
アメリカミニドカ強制収容所に収容された日系人「日系アメリカ人」および「ハワイにおける日本人移民」を参照

最初にアメリカへ渡った一世は、アメリカ本土ではなく当時のハワイ王国を目指した。その多くが日本での貧しい生活から脱却することを目的としていた労働者達は、1885年2月の第1便をはじめとするアメリカの蒸気船シティ・オブ・トウキョウに乗ってハワイへ渡った。彼らの移住は、サトウキビパイナップルプランテーションにおいて安い労働力を必要としていたハワイ政府によって助成金を支給された。

アメリカ本土への日本人の移住は、1885年頃から始まった学生と労働者の渡航がきっかけとされている。初期のメンバーはサンフランシスコに居住し、その数は1880年代末期から1890年代にかけて拡大することになり、渡航の目的は祖国を近代化させるための高度な知識と技術を身に着けることだった。彼らは、「外国人を歓迎する国」というアメリカのイメージによって引き付けられたことによって渡米したが、その大部分がアメリカに定住する意思はなく、アメリカで学び身に着けたことを日本で活かすことを目的としていた。

その後はアメリカで家庭を持ち、定住する移民が増加したが、第二次世界大戦中は「敵性外国人」であるとして強制収容所に収容された。帰化が認められるのも、1952年に「修正移民法」(マッキャラン・ウォルター移民帰化法)が成立するまで待たなければならなかった。
カナダ「日系カナダ人」を参照
ペルー「日系ペルー人」を参照
文化
世代

日系人コミュニティでは、それぞれの世代を示し、区別するために、日本の数字と世代を表す「世」を組み合わせて、「一世(issei)」「二世(nisei)」「三世(sansei)」「四世(yonsei)」「五世(gosei)」といった用語が使われている。一世・二世・三世は、権利、日本への帰属意識、宗教的信条並びに儀式、その他重要な事柄において、明確に異なる姿勢を示している。彼らが戦時下における強制立ち退きと抑留に直面していた時代は、彼らの経験や態度、および行動様式におけるこれらの変化を説明するうえで、最も重要な要素の一つである[3]

「日系(nikkei)」という単語は、社会学者の多国籍グループによって考案されたもので、その範囲は世界中に住む当該国の国籍を持ち、かつ日本人の血を引く全ての人間を含んでいるとされている[4]。一世と二世の中でも上の世代の者の集合的記憶は、1870年から1911年にかけての明治時代の日本のイメージであり、それは後から来た移民達が自分達より遅く去った日本に対するイメージとは明確に対照をなすものだった[5]。双方の日本への異なる姿勢や社会的価値観は、しばしば両者の間に摩擦を生じさせ、第二次世界大戦後も双方の溝が埋まることはなかった。

1988年8月10日に、レーガン大統領が「市民の自由法」(通称:日系アメリカ人補償法)に署名してからは、北米の日系人社会では二世と彼らの親並びに子供達の間で、自身の帰属意識や非日系人への適応のやり方に対して、大きな変化が見られるようになった[6]

現在、イギリスにはロンドンを主として10万人を超える日系イギリス人が現在いるが、世界の各地で見られる日系人のようなものではなく、イギリス人は伝統的に日系人を一世、二世、三世というように総括した呼び方はしていない[7]
一世

日本で生まれた後に海外へ移住した世代の人間は、「一世(issei)」と呼ばれている。1930年代に「issei」という言葉は、移住者を意味する英語「immigrant」に代わって、一般的に使われるようになった。この新しい言葉は、彼らの自身に対する見方が変わったことを例示するものであり、定住に伴う精神面での変化や独自のコミュニティを持つこと、新しい国に所属するという考えを表している[3]

一世は緊密な日系人社会に居場所を求めたことから、その大部分が生涯現地の言葉を習得しなかった。彼らは第二次世界大戦初期の頃に、経済的・社会的に莫大な損失を受け、それに耐えたが、戦後も失われた財産を立て直すことが出来なかった。そのことからも、一世同士で互いを支えあう傾向があった[3]

新聞・テレビ・映画などのメディアに対しても、自身の子供達とは異なり、日本語のものに頼る傾向があったことから、自身を現地人ではなく日本人と考える傾向があった[3]
写真花嫁

一家全員で移民を行った南米のケースとは対照的に、アメリカやカナダの場合、一世の多くは単身で渡航した男性だったことから、現地に住む日本人女性は皆無に等しかったうえに、特にアメリカでは白人と有色人種との結婚は法律で禁じられていた。さらに、排日運動の緩和のためにとられた1908年の日米紳士協定により日本側は米国への旅券発行制限をせざるを得なくなったため[8]、経済的に余裕のある者は日本に一時帰国して、結婚相手を見つけたが、長期間仕事を休む余裕の無い者は「写真花嫁(Picture bride)」の制度を利用することとなった。これは、実際に相手と対面することなく、写真と文通のみで結婚相手を決めるというものだった[9]

1920年2月に日本政府が「写真花嫁」に対する旅券発行を禁止するまでに、アメリカへは約2万人の日本人女性が渡ったが、アメリカ政府はこのような結婚を代理結婚と見做して、正式の結婚とは認めず、彼女達の入国には届け出や許可が必要だった。また、中には日本で見た写真とは別人のように年老いていたり、聞いていたような財産を持っていなかったといったケースも多くみられ、結婚を拒んで日本に逃げ帰った女性もいた。

「写真花嫁」に対する旅券発行が禁止されて以降は、結婚するためには日本へ一時帰国して結婚し、再渡米するという方法を取らざるを得なくなったが、1924年に「排日移民法」が制定されたことにより、その方法も不可能となった[10][11]
歴史

移民の経験は、必然的に彼らが後にした日本の社会と直接関連した要因の範囲によって影響される。移民として、祖国と新天地の間に生じる不一致は、各々個人による独自の方法ですり減らしていったが、共通の要素は日系カナダ人や日系アメリカ人の社会の歴史において出現しはじめる。
日本からの移民「鎖国」も参照

江戸幕府鎖国制度により、外国人を日本社会から排斥して以来、日本は1639年から1854年の2世紀以上に亘って、外交面では閉鎖的な国家だった。長崎に住む中国人やオランダ人は例外だったが、彼らですら日本人市民と交流することを思いとどまった。また、一般の日本人が海外へ渡航することは、法律によって厳しく禁止されていた。外交面での変化は1853年マシュー・ペリー提督が率いるアメリカの艦隊が来航したことがきっかけとなり、これが貿易や外国文化との接触のドアを開くために、政治・経済の中枢がそれまでの江戸幕府から新政府に取って代わる明治維新が始まる要因の一つとなった。

1866年以後、新しい日本政府は富国強兵へ実現させるために必要な知識と経験を身に着けるために、学生と労働者を渡米させることを決定した[12]

1884年以降、日本政府が労働者の移住を許可したことにより、北米や南米への移民が始まった。オレゴン州の例を挙げれば、1890年には僅か25人だったのが、1891年には1,000人、1900年には2,051人にまで増加している[12]1915年までに、800ドル以上の貯蓄を持つ日本人男性は、日本から妻を呼ぶ資格があると見做された[13]


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