一ノ瀬泰造
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一ノ瀬泰造
国籍 日本
出身地佐賀県武雄市
生年月日 (1947-11-01) 1947年11月1日
日本佐賀県武雄市
没年月日 (1973-11-29) 1973年11月29日(26歳没)
クメール共和国
最終学歴日本大学芸術学部写真学科
使用カメラニコンF
活動時期1970年 - 1973年
作品「安全へのダイブ」
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一ノ瀬 泰造(いちのせ たいぞう、1947年昭和22年〉11月1日 - 1973年〈昭和48年〉11月29日)は、日本報道写真家
生涯
生い立ち

一ノ瀬清二・信子の長男として佐賀県武雄市に生まれる。佐賀県立武雄高等学校に入学。物理部の部長として写真部門で活躍[1]。夏、野球部に所属し、甲子園第45回全国高等学校野球選手権大会)に出場[1]

1966年4月、日本大学芸術学部写真学科に入学[1]

1971年、卒業後、UPI通信社東京支社に勤務(3ヶ月で退社)[1]
戦地へ

半年の試用期間をもってUPIを不採用になったため、フリーランスの戦争カメラマンとして活動を開始。米軍キャンプPXの写真屋で1年間働き資金を貯め、インド・パキスタン戦争へ向かう[注釈 1]1972年3月14日、ベトナム戦争が飛び火し、戦いが激化するカンボジアに入国[1]。1972年6月、アンコールワット入りを願いクメール・ルージュの兵士と接触するが、フィルムを抜かれて追い返される[1]。8月15日、好ましからざるジャーナリストとして国外退去となりベトナムへ行く[1]。以後ベトナム戦争、カンボジア内戦を取材、『アサヒグラフ』や『ワシントン・ポスト』などのマスコミで活動し、8月25日、「安全へのダイブ」でUPIニュース写真月間最優秀賞を受賞した[1]

1973年4月27日、日本へ一時帰国。武雄市の両親のところで9日間過ごす[1]。5月、ベトナムへ再入国[1]。6月、カンボジアに再入国[1]。8月、サイゴンからプノンペンまでメコン川を遡る[1]。11月7日、親友の結婚式に出席[1]。以後、クメール・ルージュの支配下に有ったアンコール・ワットへの単独での一番乗りを目指しており、1973年11月、「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”!(ロバート・キャパの最期を捩ったもの)」と友人宛に手紙を残し、単身アンコール・ワットへ潜入、以後消息を絶った[注釈 2]
遺体発見

9年後の1982年、一ノ瀬が住んでいたシェムリアップから14km離れたアンコールワット北東部のプラダック村にて遺体が発見され、1982年2月1日に現地へ赴いた両親によって確認された[2]。享年26歳。その後、1973年11月22日もしくは23日にクメール・ルージュに捕らえられ、29日に処刑されていたことが判明した。
その後

処刑された現場であるシェムリアップ州には、村人が立てたがある。

一ノ瀬の生涯は書籍や舞台などで取り上げられた。1985年には、岡本早生主演・渡辺範雄監督による劇映画『泰造』が公開された。また1999年には、浅野忠信主演・五十嵐匠監督による劇映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』が公開され、若者の間でブームとなった。また一ノ瀬の没後30年にあたる2003年には、『地雷を踏んだらサヨウナラ』をプロデュースした奥山和由の制作、中島多圭子監督によるドキュメンタリー映画『TAIZO?戦場カメラマン・一ノ瀬泰造の真実?』も公開されている。

ベトナム戦争中に一ノ瀬が一時帰国した際、弾丸が貫通したニコンFを自宅に持ち帰っていた。ホーチミン市戦争証跡博物館には、このニコンFの写真と共に、一ノ瀬を紹介する文章が展示されている。なお、このニコンFに入っていたフィルムは母・信子の希望により写真修復師の村林孝夫らの手で奇跡的に3コマが現像され、写真集『もうみんな家に帰ろー!』に収録された[3]

両親は、泰造が残した写真を焼き続け写真集の発刊に力を尽くした。2001年、父・清二死去[4]。2007年、母・信子が「一ノ瀬泰造 生誕60周年記念写真展」を観覧している[5]

2018年12月3日、泰造の死後ネガフィルムの現像などに尽力した母・信子が死去。96歳。

2020年1月6日から3ヶ月間、東京・品川のニコンミュージアムで企画展「一ノ瀬泰造『戦場の真実、硝煙の中に生きる人々』」が開催。ニコンFなどが展示された。監修は泰造の姪の永渕教子が務め、武雄市図書館・歴史資料館が資料等の協力をした。

3ヶ月での終了が予定されていた企画展「一ノ瀬泰造『戦場の真実、硝煙の中に生きる人々』」は新型コロナウイルスの影響で同年9月26日まで会期が延長された。



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