ヴロツワフ
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「ブレスラウ」はこの項目へ転送されています。ドイツの巡洋艦については「ブレスラウ (軽巡洋艦)」をご覧ください。

ヴロツワフ
Wroc?aw



紋章

標語: Wroc?aw ? miasto spotka?
(ヴロツワフ - 出会いの都市)
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度6分36秒 東経17度1分20秒 / 北緯51.11000度 東経17.02222度 / 51.11000; 17.02222
ポーランド
ドルヌィ・シロンスク県
政府
 ? 市長ヤツェク・ストリク(英語版)
面積
 ? 都市293 km2
最高標高155 m
最低標高105 m
人口(2021年)[1]
 ? 都市642,687人
 ? 密度2,190人/km2
 ? 都市圏1,250,000人
郵便番号50-001 - 54-705
市外局番(+48) 71
ナンバープレートDW
ウェブサイト ⇒www.wroclaw.pl

ヴロツワフ(ポーランド語: Wroc?aw [?vr?t?swaf] ( 音声ファイル)、ドイツ語: Breslau [?b??sla??] ( 音声ファイル) ブレスラウ)は、ポーランド西部にある第4の都市で、ドルヌィ・シロンスク県の県都。歴史的にシロンスク地方の中心都市で[2]、ポーランドの中でも最も古い都市のひとつである。市内にはオーデル川とその支流が流れ、200以上の橋が架かっている。

ヴロツワフは歴史上、様々な国(ポーランド王国、オーストリア帝国ドイツハンガリープロイセンボヘミア)の一部となっていたが、1945年(第二次世界大戦後)にポーランド領となった。

ヴロツワフは、UEFA欧州選手権2012開催都市の一つとなった。また、2016年には欧州文化首都となり[3]、2017年にはワールドゲームズ2017の開催地にもなった。
歴史詳細は「ヴロツワフの歴史(英語版)」を参照
中世

10世紀の記録によると、ヴロツワフはボヘミアの拠点であった。
ヴロツワフの建設詳細は「中世初頭のポーランドの歴史(英語版)」を参照

ヴロツワフはボヘミア公ブラチスラフ1世(英語版)(在位915年 - 921年)によって建設された。
ポーランド・ピャスト朝詳細は「ピャスト朝ポーランドの歴史(英語版)」を参照

990年頃、他のシロンスク地方の都市とともにポーランド公国1025年よりポーランド王国となる)に属し、ミェシュコ1世ボレスワフ1世(勇敢王)時代のピャスト朝の支配下に入っていた。当初、開拓の中心地はオーデル川の中洲にあった。

西暦1000年のグニェズノ会談において、神聖ローマ皇帝オットー3世とボレスワフ勇敢王がカトリック教区の設置を決めた(Roman Catholic Archdiocese of Gniezno)。その後まもなくヴロツワフに最初の司教座が置かれた。10世紀にはすでに都市は建設されていたが、公式には西暦1000年がヴロツワフ建設の年として見なされ、2000年には都市建設1000年が祝われた。11世紀にはポーランド王国に2箇所あった貨幣鋳造所の一つが設立され(もう1箇所は当時の王国首都クラクフに設立された)、ポーランド王国の金融産業の一大中心地となった。
ボヘミア・ハプスブルク期詳細は「ヤギェウォ朝時代のポーランドの歴史(英語版)」および「ヤギェウォ朝」を参照15世紀のヴロツワフ18世紀のヴロツワフ

13世紀にはモンゴル帝国の侵略を受け、ポーランドではシュラフタ(ポーランド貴族)が乱立し、14世紀始めにヴワディスワフ1世のもとでポーランド王国が統一されたが、シロンスク地方のヴロツワフは王国から離脱した。14世紀にはポーランド王カジミェシュ3世(大王)がシロンスク地方のボヘミア王国による支配を黙認した。それでもこの一帯ではポーランドの古い王家ピャスト家の分家であるシロンスク・ピャスト家がこの地方の領主として存続した。1386年リトアニア大公国の大公ヨガイラのもとでリトアニア、ボヘミア、ポーランド、ハンガリーの王朝であるヤギェウォ朝が誕生した。1675年にシロンスク・ピャスト朝の最後の嫡男イェジ・ヴィルヘルムが死ぬと、この土地の君主家からポーランド王国との男系の血縁が途絶え、ヴロツワフを含む一帯は相続によりオーストリアハプスブルク家の手に渡った。
近代

1740年 - 1748年オーストリア継承戦争の結果、プロイセン王国の領土となる。1945年まではドイツの一部であったが、同国の第二次世界大戦敗戦に伴い、ヴロツワフはポーランド領となった。第二次世界大戦においてドイツ軍ソ連軍の激しい戦闘で歴史地区の大半が破壊されたが[4]、戦後残っていた資料を元にポーランド市民の手によって正確に復元された[5]

1970年12月、グダニスクで発生した反政府的な暴動が市内にも波及。騒乱状態に陥ったが鎮圧された[6]
地理

ポーランドの首都ワルシャワから西南へ約350キロ、シロンスク地方の中心地。
気候

ヴロツワフの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)19.7
(67.5)20.1
(68.2)25.4
(77.7)32.0
(89.6)33.9
(93)38.0
(100.4)39.0
(102.2)37.7
(99.9)34.9
(94.8)28.1
(82.6)20.9
(69.6)17.7
(63.9)39.0
(102.2)
平均最高気温 °C (°F)3.0
(37.4)4.3
(39.7)9.0
(48.2)14.5
(58.1)20.0


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